関外エリアで、日ノ出町方面と山元町方面を結ぶ通りを長者町通りとよびます。
昭和初期には横浜市電(路面電車)が通り、中心部の関内や、関外でも繁華街となっていた伊勢佐木町通りとは違って、庶民的な雰囲気を持つ通りとして親しまれていました。とくに埋地地区とよばれる、運河に囲まれたエリア(寿町、翁町、扇町など)に隣接する長者町1~4丁目は、5~9丁目と比較してとくにそのような(庶民的な)性格が強かったようです。
この埋地地区には、明治中期ごろには、関内の隣接地として輸出貿易関連の家内工業が集まってきていました。産業構造は大きく変わりましたが、今でも長者町通りに自動車やバイク関連の工場や、インテリアや服飾関連の事業所などの同業者が比較的多く見られるのは、その名残といえるかもしれません。
さて、この長者町通りの1~4丁目のなかでも4丁目エリアは目立って防火帯建築の多いエリアです。
確認できるだけでも、この狭いエリアに7棟の防火帯建築が建てられていました。いまはそのうち2棟が残っています。
昭和27年2月、長者町4丁目の借地人有志によって「長者町四丁目復興促進同志会」がつくられ市会議員宛に陳情書が出されました。
「陳情書 私共借地人一同は過去五十年の永きに渡り横浜市中区長者町四丁目に居住し各自営業に従事致して居りましたが、戦時中強制疎開のため止むなく転居し今日に至りたる者であります、その間、県調整連絡事務局、司令部、建築課、地主側等に対し種々懇願運動を続け、一日も早く接収解除の上、前記土地に復帰し町の発展と各自の事業の推進を念願と致して居ります。(後略)」(中区史市民編第3章より)
建物強制疎開、戦災、接収、と二重、三重の苦労を乗り越え、目標を共有する仲間たちが果たした復興の姿でした。
昭和29年度事業の長者ビル。4人の建築主と神奈川県住宅公社との協同によって長者町4丁目に建てられた併存住宅。角の理髪店の部分のみ1・2階店舗、あとは1階のみ店舗として設計された。このため、公社賃貸住戸数は2~4階の計23戸と変則的。(写真:融資建築のアルバム、横浜市建築助成公社より) |
1階店舗部分はかなり改装されているが、理髪店は当時から変わっていない。自動車・バイク事業所は建物裏側へ大きく延びガレージが増床されている。上階賃貸住宅部分のかつて格子状だったバルコニー手すりがパネルで目隠しされてしまっているのが意匠的に残念。 |
個別再建で建てられた第三大場ビル(右端)。明治40年創業の横浜鶏卵(株)の会社所在地。この近辺に第六大場ビルもあることから大場氏はこの一帯の大地主だったのだろうか。(写真:関工務店社史「彰往考来」より) |
いまもほぼ竣工当時のままの姿。隣接する小さな付属棟も当時のまま。交差点側(向かって左側)の防火帯建築2棟は神奈川県住宅供給公社が事業主体となり建て替えられた。接地階を商業床として通りの賑わいを継承しつつ新しい都市景観を生みだしている。 |
より大きな地図で 防火帯建築(長者ビルと第三大場ビル) を表示