2013年8月2日金曜日

弁天通り3丁目共同ビル(原ビル)

神奈川県住宅公社が手がけた最初の共同ビル(昭和28年度事業(竣工は昭和29年8月))。

焼け野原からいかにして防火帯をつくりあげていくか、それは単に建築技術だけの問題ではなく、ここで商売が成り立つのか、そもそもこれから周りに人が住んでいくのか、といった土地所有者の不安に答えなければならない問題でもありました。

下階を店舗に、上階を住居に、というヨーロッパにみられる下駄履き型の共同ビルのイメージはこの問題に対するひとつの解答でした。区分所有の概念のなかった当時の日本において、超法規的な事業手法が工夫されました。何よりもまず前例をつくることが重要だったのです。
こうしたなかで、原ビルのオーナー原良三郎氏は、神奈川県住宅公社と横浜市建築助成公社からの要請を受け、病床から次のように応えたとあります。

「万一これが不成功に了っても横浜復興の捨て石になれば本懐」(「住宅屋三十年」畔柳安雄)

原良三郎氏については、機会を設けて詳しく紹介したいと思っていますが、横浜の早期復興を願う献身的な協力があったことをまずご紹介しておきたいと思います。結果的に原ビルは民有地に建てられた国内初の階層区分所有ビルとなりました。

しかし、竣工してからは蕎麦屋が一軒開業しただけで、2年ほどは他の店は開業しては閉店するという状況がつづいたようです。この時期、原氏にとっても融資返済の見通しがたたず厳しい状況が続いたであろうと想像します。しかし前例ができたことで、県公社は着実に事業実績をのばしていきます。

開港150周年を機に、関内まちづくり振興会が弁天通りで関内ハイカラ市をはじめました。毎年11月に開催されるこのイベントを通じて、戦前最も栄えていた弁天通りに思いを馳せることができます。

竣工後しばらくは蕎麦屋1軒のみだった。下層階が奥に深く、2階のテラスを兼ねる設計になっている。隅切りを設けるデザインもすでにこの段階で確認できる。(写真は「公社住宅の軌跡」神奈川県住宅供給公社より引用)

現在の原ビルと弁天通り(関内ハイカラ市のようす)


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