2013年9月20日金曜日

山田ビル

県立歴史博物館(旧横浜正金銀行)のすぐ近くの太田町通りに沿ってこのビルは建っています。

このあたり一帯は、吉田新田の埋め立てにつづいて重要な埋め立て事業が行われた場所。吉田新田が吉田勘兵衛によって埋め立てられ、いまの吉田町の町名の由来にもなっているのと同じように、このあたりは江戸末期に太田敬明によって埋め立てられ、いまの太田町の町名の由来にもなっています。

山田ビルは、昭和28年度融資を受けて3階建ての個別再建型ビルとして建てられました。竣工当時の写真をみると、ビル北側には将来の増築を見越した角だしの処理がみられ、実際に昭和33年度に再度の融資を受けて4階建てのビルを増築します。

いずれも施工を請け負ったのは(株)白井組。明治7年に中区常盤町で創業した横浜の老舗工務店のひとつです(当時の屋号は「大庄」)。戦災と接収によって関内を追われ、南区井土ヶ谷、南区新川町と転々と本店を移しながら接収解除を待ちます。長い接収期間を経てようやく関内が接収解除されはじめた昭和28年7月に中区住吉町に復帰。山田ビルは、白井組自身が関内に復帰したのとほぼ同時に手がけた最初の防火帯建築でした。(参考:(株)白井組会社沿革)

ちなみに以前紹介した商栄ビルは目と鼻の先。 山田ビルが少しだけ先に竣工していました。商栄ビルの竣工当時の写真の右奥に見えるのがおそらく竣工直後の山田ビルだろうと思います。

接収解除を機に、次々と立ち上がりはじめた防火帯建築の姿と、同時に再出発・成長していこうとする横浜の老舗工務店の姿がそこにありました。

竣工当時のようす。ビル北側面に将来の増築を見越した角だしの処理がみえる。その後延長して4階建てビルが増築された。これに前後して写真のビル自体も4階建てに増築された。(写真出典:融資建築のアルバム(横浜市建築助成公社))

現在の山田ビル。説明を受けない限り、増築を繰り返したビルには見えない。レンガ調のタイルによる赤茶色の外観が印象的。防火帯建築の外壁の色・材料の移り変わりもさまざまでおもしろい。


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2013年9月13日金曜日

公社住宅に託した夢

吉田町第一名店ビルの一室を、オーナーのご厚意で見せていただきました。

この20年ほど、誰にも貸さずに静かに閉じられていた40㎡程度の小さな住宅です。
建設当時の間取りや設備がほぼそのまま残され、生活様式や設計の苦労がそこかしこに確認できます。
かつてここに暮らしていた方も、きっと大切に住んでいたのだと思います。

吉田町第一名店ビルが建てられた当時、住宅金融公庫から1戸あたり13坪を限度として融資が用意されていました。しかしこの13坪は廊下やバルコニーも含む面積として設定されていたため、片廊下型の集合住宅は1戸あたりの共用部分の占める面積がどうしても増えて不利となり、家族向け住戸を収めるのはほぼ不可能でした。

当時、工務部長(設計技術者集団のトップ)を務めていた石橋逢吉は、次のように述べています。

「十三坪の枠では設計不可能に近く、その為には一室住宅でも造らねばなるまい。(中略)C型は間口が足りない場合使うが、直接日照のない居室ができるが一応各室の独立性は保っている。」(雑誌住宅1957年6月)

C型とは、県公社が考案していた3つの型式プランのなかのひとつ。最も小さなもの(訂正2015.8.27)。吉田町第一名店ビルではこのC型が主に適用されました。公庫の融資の枠に納まらない分は直接家賃に跳ね返りますが、13坪に収まる1室プランの極小住宅を無理矢理つくるのではなく、戸当たり13坪を超えても独立2室プランを固辞したわけです。しかし当然、庶民が払うことのできる家賃の限界もあります。

「住戸間のブロック間仕切りをブチ抜くことによって広さを確保する可能性を留保して置くことだけが我々のはかなきレジスタンス」(前掲)

現代に生きる私たちがこれから描く夢と、技術者たちが試行錯誤の末にのこした仕掛けがいつか重なる日が来るのかもしれません。

奥の居室につながる廊下。真ん中の居室との間には障子戸が設けられている。2室は独立性を保ちながら、この廊下でゆるやかに一体となる。この廊下は、原型 となった公社C型プランでは食堂とされているが、C型よりもさらに間口が狭かったため食堂スペースがとれなかったのだろう。かわりに厨房まわりにスペース がとられ「食事室兼調理室」とされた。
 
今ではほとんど目にすることのできなくなった人研ぎ(人造石研出し)の流し台。ステンレス製の流し台は昭和33年から公団で採用され普及した。隣の浴室にも人研ぎの流しが残る。


バルコニー側の網入りガラスの掃き出し窓。この建物が防火帯建築であることを静かに主張している。

 
住居専用部分の広さに応じて、10坪から14坪の間でA型・B型・C型の3型式が用意された。すべての型式で独立2室の確保と、食事室(独立または調理室兼用)が計画された。(出典前掲)

2013年9月5日木曜日

吉田町第一名店ビル

吉田橋から野毛方面に抜ける道を吉田町本通りと呼びますが、ここに防火帯建築が4棟並んで建っています。真ん中の2棟は隣り合って建っているので見かけ上は3街区3棟にもみえます。

このうち、吉田橋に最も近いのがこの第一名店ビル。8人の建築主と神奈川県住宅公社による共同再建型の併存住宅として建てられ昭和32年3月に入居が始まりました。(昭和30年度事業)

吉田町第一名店ビルが建つ場所は、一帯が占領軍によって接収され米軍キャンプ地となっていた場所。本通りの向かい側(北側)は、かろうじて接収からはずれていました。つまり吉田町本通りは接収の境界線でもあったわけです。

商店主たちは道をはさんだ向かい側の土地で仮設商店街を営みながら将来の帰還に備え、そして悲願の接収解除。県公社との設計協議の過程では、再び元の場所に戻り、商っていく夢をひとつの形にしていきます。このようにして、1・2階が店舗併用住宅として立体的に計画された防火帯建築が生まれました。

現在、おそらくこの第一名店ビルは、関内外の防火帯建築のなかでも最も注目されている建物のひとつ。数年前からバーや飲食店が入居するようになり通りの雰囲気がかわりはじめ、築50年を過ぎた古いコンクリート長屋を活かしたまちづくりが地元町内会・名店街会の若手メンバーを中心に進められています。下層階には、横浜市芸術文化振興財団の芸術不動産リノベーション助成事業をうけてアートスペースが設けられたり、建築設計事務所が入居するなど、アーティストやクリエイターの拠点にもなりつつあります。

2階はもともと住居として計画されていましたが、将来の商業床需要にも対応できるように、天井裏には40cm程度束立てされ余裕空間がとられていました。設計者の配慮が、築後50年を過ぎても使い続けられる空間を生み出しています。

竣工当時のようす。2階は内階段でつながれ住宅として計画された。柱間隔や窓配置のようすから、もともとバラバラだった敷地割りを統合しようとした苦労がみえる。

2013年8月の「まちじゅうビアガーデン」イベントのようす。このほかにも吉田町バーズストリートの開催など、古い街並みを活かしたイベントが企画実施されている。


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