2013年8月3日土曜日

復興建築助成株式会社(イセビルと伊勢佐木町共同ビル)

戦前(関東大震災後)の話になりますが、ちょうどいま横浜市内の3館(横浜都市発展記念館、横浜開港資料館、横浜市史資料室)で関東大震災90周年の記念展が開催されていることもあり、とりあげてみたいと思います。

関東大震災は横浜市において震災被害世帯率95.5%(東京市は73.4%)に達し、壊滅的な被害を受けました。残存家屋は5000戸に満たなかったといわれています。

不燃化を進めるために民間出資や東京市・横浜市などの公的資金による協同出資(東京市と横浜市の出資比率は5:1) により大 正15年に復興建築助成株式会社が設立され、昭和18年までの間で東京市859件、横浜市75件の助成実績を挙げました。当時の横浜市中区の鉄筋コンク リート造建物約240棟のうち約3割が助成会社からの助成を受けたものであり、耐火建築化がなかなか進まなかった当時において貢献度は高かったようです。 (以上、栢木まどか・伊藤裕久、横浜における復興建築助成株式会社と共同建築、日本建築学会大会学術講演梗概集2005年を参考)

伊勢佐木町商店街界隈にのこるイセビルと伊勢佐木町共同建築ビル(一部)は、現在も当時の面影を残しています。

昭和2年建築のイセビル。現在も伊勢佐木町商店街のゲート脇に建ち商店街を象徴する建物のひとつとなっている。復興建築助成株式会社の横浜市における第一号。昭和4年には助成会社の横浜支店がここに置かれた。当時の市会議員上保慶三郎氏による建築として、「ビルディング 素描(其の二)『大横浜』1930年第3号」には「復興建築の尖端を押し切つて進んだ勇気は推賞に値する」とある。茶色のタイルで縁取りされたアーチ型の窓が特徴的。終戦後は占領軍により接収された。

旧伊勢佐木町共同建築ビル(一部)。昭和3年建築で3人の施主が間口を分け合うかたちのコンクリート長屋だった。共用部分をもたないため3つの独立階段が用意され、このうち北側の1戸が建て替えられているが、南側の2戸分が残っている。かなり改変されているが、独立階段室のファサード意匠はよく保存されている。

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