このうち、吉田橋に最も近いのがこの第一名店ビル。8人の建築主と神奈川県住宅公社による共同再建型の併存住宅として建てられ昭和32年3月に入居が始まりました。(昭和30年度事業)
吉田町第一名店ビルが建つ場所は、一帯が占領軍によって接収され米軍キャンプ地となっていた場所。本通りの向かい側(北側)は、かろうじて接収からはずれていました。つまり吉田町本通りは接収の境界線でもあったわけです。
商店主たちは道をはさんだ向かい側の土地で仮設商店街を営みながら将来の帰還に備え、そして悲願の接収解除。県公社との設計協議の過程では、再び元の場所に戻り、商っていく夢をひとつの形にしていきます。このようにして、1・2階が店舗併用住宅として立体的に計画された防火帯建築が生まれました。
現在、おそらくこの第一名店ビルは、関内外の防火帯建築のなかでも最も注目されている建物のひとつ。数年前からバーや飲食店が入居するようになり通りの雰囲気がかわりはじめ、築50年を過ぎた古いコンクリート長屋を活かしたまちづくりが地元町内会・名店街会の若手メンバーを中心に進められています。下層階には、横浜市芸術文化振興財団の芸術不動産リノベーション助成事業をうけてアートスペースが設けられたり、建築設計事務所が入居するなど、アーティストやクリエイターの拠点にもなりつつあります。
2階はもともと住居として計画されていましたが、将来の商業床需要にも対応できるように、天井裏には40cm程度束立てされ余裕空間がとられていました。設計者の配慮が、築後50年を過ぎても使い続けられる空間を生み出しています。
竣工当時のようす。2階は内階段でつながれ住宅として計画された。柱間隔や窓配置のようすから、もともとバラバラだった敷地割りを統合しようとした苦労がみえる。 |
2013年8月の「まちじゅうビアガーデン」イベントのようす。このほかにも吉田町バーズストリートの開催など、古い街並みを活かしたイベントが企画実施されている。 |
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