2013年8月6日火曜日

公社ビル

原ビルに隣接して6階建てのビルが建っています。

神奈川県住宅公社の自社ビルとして、原地所から土地を取得し昭和33年に建てられたものでした。昭和48年には横浜公園近くの新社屋に移転したため、自社ビルとしての使用期間は15年ほどでしたが、その後も(社)土地建物保全協会や(社)かながわ住まい・まちづくり協会、民間の設計事務所などが入居し、横浜の住まい・まちづくりを支え続けてきた建物のひとつでした。

県公社は住宅金融公庫の設立にあわせて昭和25年9月15日に発足。その後、花園橋傍の駐留軍用キャバレーとして使用されていた建物を間借りしたり、横浜駅西口に木造の事務所と管理人用バラック住居を建てたり転々としていましたが、西口の市街地整備により弁天通りに移転することになりました。(参考:「公社住宅の軌跡」神奈川県住宅供給公社)

設計事務所3社による非公式の設計コンペが行われ、最上階の住戸は当時としては珍しいメゾネット形式が採用されました。原ビルから延長する形でコの字型の配置で街区を構成し、弁天通り・太田町のそれぞれの通り側から街区内部への引き込みがデザインされるなど、県公社による防火建築帯造成の考え方とその意欲がよくわかります。

横浜で戦前から3代にわたり営業していた理髪店が入っていた時期もありました。隣接する原ビルは、なかなか店舗が埋まらず苦しい経営が続いていましたが公社ビルが建ってようやく急速に店舗が埋まったようです(「住宅屋三十年」畔柳安雄)。公社職員にとっても思い入れのある建物として、現在は静かに建て替えを待っている状態ですが、横浜復興の一翼を担った建物として後世に語り継がれることを願います。

竣工当時の公社ビル(「横浜市建築助成公社20年誌」より引用)。2階事務所部分のガラスの水平連続窓と、1階隅切り部の特徴的な意匠、太田町から街区内部への引き込み動線などが印象的。関内大通りの路面電車の線路もみえる。

現在の公社ビル。周辺は大きく変わった。半世紀を経て、関内大通り沿いの5本の銀杏並木も大きく生長した。


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2013年8月4日日曜日

金港ビルとLORDビル(仮称)

弁天通り1丁目に気になる建物が2棟あります。

横浜市建築助成公社から昭和29年度融資を受けている共同ビル。
助成公社による「融資耐火建築調」によると昭和27年度から融資事業をはじめてから60棟目にあたり、それまで多くても5人の建築主による共同建築が最大数であったのに対して、この共同ビルは8氏の建築主による共同建築。
県公社との併存型ではなく、個別再建型の共同ビルです。

そしてそれまでの共同ビルが3階建てか4階建てが多い(防火帯なのでできるだけ中層化されることが望ましかった)のに対してこの共同ビルは2階建て。
竣工当時の写真を見ると、2階部分を一体的にデザインしたガラスのカーテンウォールが目を引きます。極めてモダンなデザインが用いられると同時に、建物の妻側には、将来の増築を見越した角だしの処理がみえます。

現在、この建築はどうやら分節されて2棟になり現存しているようです。
中央部分(仮にLORDビルと呼んでおきます)は分節された当時のまま、半分ファサードが隠れていますが、ガラスのカーテンウォールもみえます。
南端部分は増築され、現在は3階建てのビル(金港ビル)として多くのテナントが入居しています。竣工当時の写真にみえる上階への入り口は、現在はビル中央部分に位置し、2、3階のアクセス専用として使われているようです。

どうしてこういう経緯を辿ったのかはわかりませんが、スチュワート・ブランドの「How Buildings Learn」のように、学びつづける建築の姿がそこにありました。

竣工当時の写真。南側の妻面に将来の増築を見越した角だしの処理がみえる。2階部分のガラスのカーテンウォールが極めてモダンな印象。(写真出典:融資建築のアルバム(横浜市建築助成公社)1957)


中央部分が一部そのまま現存している。2階のガラス面もおそらく当時のまま。

南側は分節後に増築され現在は3階建てのビル(金港ビル)になっているようだ。
昭和33年当時の防火建築帯造成状況図からの抜粋。


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2013年8月3日土曜日

復興建築助成株式会社(イセビルと伊勢佐木町共同ビル)

戦前(関東大震災後)の話になりますが、ちょうどいま横浜市内の3館(横浜都市発展記念館、横浜開港資料館、横浜市史資料室)で関東大震災90周年の記念展が開催されていることもあり、とりあげてみたいと思います。

関東大震災は横浜市において震災被害世帯率95.5%(東京市は73.4%)に達し、壊滅的な被害を受けました。残存家屋は5000戸に満たなかったといわれています。

不燃化を進めるために民間出資や東京市・横浜市などの公的資金による協同出資(東京市と横浜市の出資比率は5:1) により大 正15年に復興建築助成株式会社が設立され、昭和18年までの間で東京市859件、横浜市75件の助成実績を挙げました。当時の横浜市中区の鉄筋コンク リート造建物約240棟のうち約3割が助成会社からの助成を受けたものであり、耐火建築化がなかなか進まなかった当時において貢献度は高かったようです。 (以上、栢木まどか・伊藤裕久、横浜における復興建築助成株式会社と共同建築、日本建築学会大会学術講演梗概集2005年を参考)

伊勢佐木町商店街界隈にのこるイセビルと伊勢佐木町共同建築ビル(一部)は、現在も当時の面影を残しています。

昭和2年建築のイセビル。現在も伊勢佐木町商店街のゲート脇に建ち商店街を象徴する建物のひとつとなっている。復興建築助成株式会社の横浜市における第一号。昭和4年には助成会社の横浜支店がここに置かれた。当時の市会議員上保慶三郎氏による建築として、「ビルディング 素描(其の二)『大横浜』1930年第3号」には「復興建築の尖端を押し切つて進んだ勇気は推賞に値する」とある。茶色のタイルで縁取りされたアーチ型の窓が特徴的。終戦後は占領軍により接収された。

旧伊勢佐木町共同建築ビル(一部)。昭和3年建築で3人の施主が間口を分け合うかたちのコンクリート長屋だった。共用部分をもたないため3つの独立階段が用意され、このうち北側の1戸が建て替えられているが、南側の2戸分が残っている。かなり改変されているが、独立階段室のファサード意匠はよく保存されている。

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