横浜は終戦直前に大空襲を受け、市街地の中心部のほとんどを焼失しました。さらに、終戦後は約10年間にわたる占領軍による長期接収を受けました。ようやく接収解除が進みはじめた横浜中心部は関内牧場と揶揄されるほど荒れ果て、横浜市民にとって屈辱的な光景が広がっていました。大空襲と長期接収の二重苦からどのように復興を果たしたのか。そこで努力したのはいったいどのような人達だったのか。いまも関内外に残る防火帯建築群を記録・紹介することから考えてみたいと思っています。