永楽町・真金町は、かつての遊郭街の名残をとどめる町。遊郭が永楽町・真金町に移ってきたのは明治15年ごろまでさかのぼります。山田町、富士見町の3、4丁目をふくむ一帯が遊郭移転地に指定され、このときに町名が「永楽町」「真金町」へ変更されました。妓楼が建ち並び、桜や柳の並木が演出する異世界へ。伊勢佐木町から近かったこともあり人が流れ込み急速に盛り場へ変貌を遂げていました。
一方で、道をはさんだ山田町、富士見町側は職人町として、輸出の下請け業者が集まっていた労働者の町でした。大正9年には富士見町に職業紹介所が設置され、労働力供給の拠点ともなっていました。
戦災で大きな被害を受けたのち、山田町、富士見町側だけが占領軍に接収されました。つまり、山田町・富士見町と、永楽町・真金町との町境の通りは、占領軍による接収地と非接収地の境界線となりました。もともとひとつだった町は、遊郭移転を機に道を挟んでふたつに別れ、戦後もそれぞれ異なる運命を辿りはじめたわけです。
そして接収解除。山田町、富士見町には神奈川県住宅公社や日本住宅公団によって復興住宅団地が防火帯建築として次々に建てられました。現在、公社住宅と公団住宅は建替えによって高層化され、計672戸の都心賃貸(URは一部分譲)、約2千人が暮らす住宅地に成長しました。
富士見町共同ビルは、終戦後10年以上経って、この街がようやく戦後の第一歩を踏み出した姿を残しています。
(参考:横浜市建築助成公社20年誌、中区史、横浜関内地区の戦後復興と市街地共同ビル(神奈川県住宅供給公社)ほか)
富士見町共同ビルの竣工当時の写真(県公社資料より)。施工は関工務店。このころになると、下層階の店舗、隅切り部の意匠、通りにバルコニーを向けて街区内部に片廊下を置く配置、街区内部への引き込み動線を兼ねた両側外階段など、横浜における防火帯の建築言語が整ってくる。 |
富士見町共同ビルの現在のようす。竣工当時の外観をよく残している。下層階には、不動産、バイクショップ、中古車販売、飲食店などが入る。 |
街区内部への引き込み動線を兼ねた外階段。側壁は防火帯の延長を予測しているのか両側ともに窓もなくのっぺりとしたもの。街区内部は時間貸し駐車場となっており、空地をつくりだす防火帯建築のねらいを体験できる。 |