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2014年9月25日木曜日

幻の横浜中央ビル

たまたま古い神奈川新聞を見ていたら、興味深い記事を見つけました。

「馬車道に大ビル-工費一億円で四階建て-接収地解放後の計画」
(昭和25年2月11日、神奈川新聞1面)

「伊勢佐木町飛行場跡解放の朗報に引き続き、横浜市のメーンストリート中区尾上町馬車道の一部が米軍の好意によって解放されることになり、期待される市街地解放のさきがけとして明るい希望を市民に抱かせている。」との書き出しで始まり、

「伊勢佐木町解放に際してのイザコザもあったので、復興建築の衛にあたる尾上町復興協栄会では・・(中略)・・地下一階、地上四階の鉄筋コンクリート・ビル(延二千坪)を建設することになり”横浜中央ビル”の名で総工費一億三千万円を計上・・(中略)・・地下、一階は商店街とし、二、三、四階は銀行、保険会社、一般会社の事務所などにあて・・(後略)」とあります。

地下と一階を商店街にしようとしていたこと、 そして何より「横浜中央ビル」(関内中央ビルではなく)という名前を与えようとしていたことが戦後復興の時代を物語っている気がします。

さて、現実には横浜中央ビルは建設されることはありませんでした。いま現地には「昭和28年度表彰建築物」を掲げた地上6階建ての旧大和銀行ビルが建っています。

なぜ半分の敷地となったのか、なぜ商店街構想はなくなったのか、昭和25年から28年の間にいったい何が起きたのか、興味は尽きません。

少し経った昭和38年に、関内大通りをはさんだ尾上町3丁目に横浜第一有楽ビルが建設されました。このビルには一階と地階に商店街が設けられています。当時の横浜市電(路面電車)の停車場周辺の賑わいの声が聞こえてきそうです。

馬車道側から横浜中央ビル(予想図)を望む。商店街と銀行やオフィスの複合建築を構想していた。もし実際に完成していたら、馬車道通り、関内大通り、尾上町通りの3つの通りに面する建物となっていた。(出典:神奈川新聞、昭和25年2月11日)

関内大通り側から旧大和銀行ビルを望む。いまは地下鉄の入り口が以前駐車場だった場所に設けられている。横浜中央ビル構想は関内大通りから馬車道通りまでの敷地をひとまとめにした大がかりな共同建築の構想だったが、何らかの理由で共同化を断念したのだろうか。

昭和28年度表彰建築物のプレートが、交差点側に向けて建物入り口脇に掲げられている。建築主は大和銀行。

関内大通りを挟んで向かいに建つ横浜第一有楽ビル(昭和38年)には、地階に商店街(地下店舗)が設けられている。通り抜けも可能。

2013年12月16日月曜日

尾上町共同ビル

尾上町通りは桜木町駅から大江橋をわたり、まっすぐ横浜市役所に通じる通り。市電が走っていた時代には横浜公園を回り込みながらそのまま本牧まで市電が通っていました。

現在の市役所は7代目にあたりますが、2代目、4代目、7代目の市役所はいずれも現在とほぼ同じ場所に建てられていました。それ以外の場所に建てられていた時期は、開港後の臨時市役所として(初代)、関東大震災や第二次大戦による焼失にともなう一時的市役所だったり(3代目、5代目)と、いずれも暫定的な立地であり、尾上町通り沿いの現在の位置がほぼ定位置だったことがわかります。

建築基準法の前身である市街地建築物法が1919年に施行されてすぐに、この通り沿いは防火地区に指定されました。さらに関東大震災後には土地区画整理によって道路が拡幅、防火地区は戦災復興時の防火建築帯指定にもひきつがれました。

こうしたなかで、尾上町共同ビルは接収解除後の昭和31年に竣工した県公社との併存ビル。施工は大正13年に桜木町で創業した紅梅組。店舗は1階のみで2階から4階に12戸の公社住宅が計画されています(現在は払い下げられています)。1階で営業をつづける中華料理店は竣工後まもなく入居、創業60年近い老舗飲食店です。

おなじ尾上町3丁目のブロックには戦前まで市内有数のダンスホール「カルトンダンスホール」が立地していました。横浜は西洋からダンスが輸入され庶民の暮らしに最初に根付いた場所。少しずつ戦時色をおびていくなかで昭和15年10月末に廃止されますが、昭和21年に営業許可が再開。横浜中心部の市電停留所の前でダンス教室がないところはなかったといわれるほどに復興していきます。

防火地区としても早くから最重要の位置づけとされた尾上町通り。一方で警察の許可がないと開けなかったダンスホールが、市役所の目と鼻の先で戦前から立地し根付いていた通りでもありました。

官と民の近さ、垣根の低さも横浜のアイデンティティのひとつではないでしょうか。
(参考:建築助成公社20年史、写真集「昭和の横浜」(横浜市史資料室)、有隣第391号、株式会社紅梅組会社概要ほか)


竣工当時の尾上町共同ビル。1階にはまだ空き店舗もみられる。西側2スパンは出店準備中だろうか。片廊下型で階段室はひとつ。商栄ビル、長者ビルのように住宅のバルコニー側が道路に面するのではなく、玄関側が通りに面している。このため少し閉じた印象。

戦前まで尾上町3丁目ブロックに立地していたカルトンダンスホール。今和次郎らによって考現学採集の対象ともなった。このカルトンホールは市内の他のダンスホールに比べてかなり賑わっていたとの記述あり(出典:考現学採集(モデルノロジオ)今和次郎ほか)。

現在の市役所庁舎が建築された直後に屋上から撮られた写真。眼下に市電の通る尾上町通り、通りの向かいに「フレンドダンス教室」の看板(写真右下)がみえる。こうした娯楽の復興も市民にとっての戦後復興の象徴だった。(昭和34年撮影、横浜市史資料室)

現在の尾上町共同ビル。歩道の銀杏並木が大きく成長した。西側2スパンの中華料理店は創業60年近い。接収解除後の横浜関内の戦後復興をずっとみてきた。東側には「関内イセビル」が隣接している。


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2013年8月6日火曜日

公社ビル

原ビルに隣接して6階建てのビルが建っています。

神奈川県住宅公社の自社ビルとして、原地所から土地を取得し昭和33年に建てられたものでした。昭和48年には横浜公園近くの新社屋に移転したため、自社ビルとしての使用期間は15年ほどでしたが、その後も(社)土地建物保全協会や(社)かながわ住まい・まちづくり協会、民間の設計事務所などが入居し、横浜の住まい・まちづくりを支え続けてきた建物のひとつでした。

県公社は住宅金融公庫の設立にあわせて昭和25年9月15日に発足。その後、花園橋傍の駐留軍用キャバレーとして使用されていた建物を間借りしたり、横浜駅西口に木造の事務所と管理人用バラック住居を建てたり転々としていましたが、西口の市街地整備により弁天通りに移転することになりました。(参考:「公社住宅の軌跡」神奈川県住宅供給公社)

設計事務所3社による非公式の設計コンペが行われ、最上階の住戸は当時としては珍しいメゾネット形式が採用されました。原ビルから延長する形でコの字型の配置で街区を構成し、弁天通り・太田町のそれぞれの通り側から街区内部への引き込みがデザインされるなど、県公社による防火建築帯造成の考え方とその意欲がよくわかります。

横浜で戦前から3代にわたり営業していた理髪店が入っていた時期もありました。隣接する原ビルは、なかなか店舗が埋まらず苦しい経営が続いていましたが公社ビルが建ってようやく急速に店舗が埋まったようです(「住宅屋三十年」畔柳安雄)。公社職員にとっても思い入れのある建物として、現在は静かに建て替えを待っている状態ですが、横浜復興の一翼を担った建物として後世に語り継がれることを願います。

竣工当時の公社ビル(「横浜市建築助成公社20年誌」より引用)。2階事務所部分のガラスの水平連続窓と、1階隅切り部の特徴的な意匠、太田町から街区内部への引き込み動線などが印象的。関内大通りの路面電車の線路もみえる。

現在の公社ビル。周辺は大きく変わった。半世紀を経て、関内大通り沿いの5本の銀杏並木も大きく生長した。


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