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2014年10月31日金曜日

伊勢佐木町センタービル

伊勢佐木町通りと長者町通りが交差するところ、関内からみて長者町通りを渡った伊勢佐木町3丁目側にこのビルは建っています。

向かいには日本初の洋画専門館として明治44年に創業した旧横浜オデオン座(現ニューオデオンビル)が建ち、このあたりは明治後半には既に日本屈指の西洋文化の発信地となっていた場所です。
旧オデオン座はその後、関東大震災からの再建を果たし、しかし、敗戦後占領軍によって昭和30年までのちょうど10年間「オクタゴンシアター」として接収されつづけます。

オデオン座がようやく接収解除されようとするころ、昭和29年度事業として、横浜市建築助成公社から助成をうけて六者共同による共同ビルが建てられました。このころ伊勢佐木町通りにはすでに数棟の共同ビルが建ち始めていましたが、六者によるものはこれが初めてであり、かつてない規模のプロジェクトとなりました。

横浜は開港後、明治期までは弁天通りと馬車道通りの交差するあたりが最も地価が高かったと言われています。大正期にはこれが伊勢佐木町と吉田町の交差点に移り、昭和に入り市電網が充実してくるころには伊勢佐木町と長者町の交差点あたりに移ります。

戦後復興の時代、かつてない規模のプロジェクトを実現に至らしめたのは、このあたりにまだ横浜の中心地、伊勢佐木町の中心地としての熱気が残っていたからなのかもしれません。ビルの名前はそのことを主張しているようにも見えます。

港、関内から伊勢佐木、吉田町、そして長者町へ。横浜の中心地の内陸への移動は都市の発展を象徴していました。しかし、その後の横浜駅周辺の急速な発展によって、昭和40年頃にはその地位を横浜駅に譲ります。

映画館、市電がまちから姿を消し、長者町通りは車の道、伊勢佐木町通りは歩行者の道へと姿を変えました。60年にわたって建ち続けているこのビルは、確かにかつてここが中心地であったことをいまでも教えてくれます。

(参考:横浜市建築助成公社20年誌、融資建築のアルバム、横浜市電が走った街 今昔、有隣No.434ほか)

昭和29年度事業、六者共同による共同ビル。3層と比較的低く構えた外観と、長者町通り・伊勢佐木町通りのそれぞれに面したガラスのカーテンウォールが水平的な広がりを強調している。隅切り部にもガラス面があるが垂直に設けられたルーバーの装飾がアクセント。(「融資建築のアルバム」より引用)

現在もほぼ竣工当時の外観を保っているが、看板や窓面パネル、街路樹などで隠れている部分も多い。建物としては一体であるが、分割所有のため個別に修繕が行われているのだろう。

伊勢佐木町センタービルの看板から、かつてここが中心地であったことを想像することができる。

昭和31年5月8日の写真(「横浜市電が走った街 今昔」より引用)。長者町通りを走る市電の向こうに、接収解除されたばかりの旧オデオン座と竣工したばかりの伊勢佐木町センタービルがみえる。手前には横浜ピカデリー劇場の建物。


2013年10月1日火曜日

第二イセビルと第三イセビル

防火帯建築にはそれぞれ建築主がいます。建築主は事業者や住宅公社などの企業・団体である場合もあるし個人である場合もあります。

そして、個人のなかには親族(兄弟や子)によって複数の再建ビルを建てた人たちもいます。第二イセビルと第三イセビルもそのひとつ。ほかにも未確認ですが、横浜市建築助成公社から融資を受けた人たちで同姓の場合には同様のケースがあるのかもしれません。

(第一)イセビルは以前ご紹介した、関東大震災後の復興の尖端をきって当時の市会議員上保慶三郎によって建てられたビルでした。

第二イセビルは昭和29年度融資(建築主:上保嘉保)、第三イセビルは昭和31年度融資(建築主:上保元子)を受けて、それぞれ単独再建型のビルとして建てられました。施工はいずれも大林組。

上保慶三郎は、1885(明治18)年、中区扇町生まれ。長崎の露語学校を卒業後、ロシアにわたり洋服やラシャ類を研究し帰国。二十歳の若さで洋品店を開業した人物でした。戦前、戦中にかけて25年間市会議員を務め、敗戦間もない昭和21年1月17日には伊勢佐木町振興会を組織し自ら会長職に就きました。(参考:ハマの建築探検)

戦後、振興会は慶三郎を中心として接収解除陳情を繰り返しながら、返還が叶った土地についてはかつての地権者に店を出すように働きかけていきます。(参考:中区史)

第二イセビル、第三イセビル、もこうした経緯のなかで生まれた防火帯建築。復興の精神は、親から子へ、子から孫へと受け継がれていたのではないでしょうか。

第二イセビル竣工当時のようす。隣り合うビルと共に防火帯を構成しているのがよくわかる。

第二イセビルの現在のようす。竣工当時のままに見えるが、建物裏側はかなり増築されている。2階の窓枠は付け替えられているところが多い。

竣工当時の第三イセビル。何より屋上に設けられた時計台が目を引く。当時はまだ長者町通りに路面電車が通っており、通勤や買物で利用する人たちにとってこの時計台は大切なランドマークだったのではないだろうか。

第三イセビルの現在。時計台が姿を消してしまっているのが残念。


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2013年8月19日月曜日

キニヤビル

伊勢佐木町1丁目の、旧松坂屋本館と西館(旧松屋)にはさまれた場所にこのビルは建っています。

旧松坂屋本館と西館(旧松屋)は、横浜市民であれば誰でも知っているデパート建築として、2004年にいずれも横浜市歴史的建造物に認定されましたが、本館は惜しまれながら2008年10月26日に閉店し144年の歴史に幕を閉じました。現在は跡地に3階建ての商業施設が立地しています。

かえって存在感が増した(?)感のあるこのキニヤビルは、昭和28年度事業(融資)として築60年を迎えようとしています。戦災で焼失してしまったこの土地に、接収解除後の早い段階で4人の建築主によって3階建ての共同ビルが建てられました。

施工者は隣に残る旧松坂屋西館(旧松屋)も手がけた大林組。竣工当時の写真をみると、水平基調のモダンなガラスのファサードを覆うように、あえて鉛直方向の意匠を強調するように設けられたコンクリート製ルーバーが特徴的です。だいぶ改修された現在でもどことなくクラシックな雰囲気が漂うのも、この意匠によるところが大きそうです。

このルーバーに屋根面の庇を支える構造的な意味があったのか、それとも単なる意匠的な理由なのか、あるいは日射を緩和する環境的な意味があったのか、定かではありませんが、少なくとも昭和53年に現在のような歩行者専用道としてのモール化工事が行われた直後までは竣工当時のままだったようです。

モール化する前の伊勢佐木町通りは、車道が中央を通り、両側の歩道上にはアーケードが設置されていました。このルーバーには、通行する車や、車道を挟んで反対側の歩道を歩く人たちからよくみえるように、多様な看板設置に対応できる機能的な意味が持たされていたのかもしれません。このような、いわば奥行きのあるファサードを持つ建築は、よくみると伊勢佐木町通りにはいくつかみかけることができます。

通りの主役が車から人間にもどったことが、ファサードの変化をもたらしています。

竣工当時のキニヤビル。2・3階を覆うコンクリート製ルーバーが特徴的。(写真:融資建築のアルバム、横浜市建築助成公社)

現在のキニヤビル。レンガ調のタイルで覆われ雰囲気がずいぶん変わったが一部に竣工当時の面影を残している。モール化によって看板を林立する必要がなくなった。

昭和53年のモール化工事のようす。左側に旧松坂屋本店とキニヤビルがみえる。(写真出典:OLD but NEW イセザキの未来につなぐ散歩道、イセザキ歴史書をつくる会著、神奈川新聞社)

昭和37年8月の伊勢佐木町通り。当時は道幅いっぱいの車で混雑した。歩道上のアーケードと、林立する看板群がみえる。(写真出典同上)


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2013年8月3日土曜日

復興建築助成株式会社(イセビルと伊勢佐木町共同ビル)

戦前(関東大震災後)の話になりますが、ちょうどいま横浜市内の3館(横浜都市発展記念館、横浜開港資料館、横浜市史資料室)で関東大震災90周年の記念展が開催されていることもあり、とりあげてみたいと思います。

関東大震災は横浜市において震災被害世帯率95.5%(東京市は73.4%)に達し、壊滅的な被害を受けました。残存家屋は5000戸に満たなかったといわれています。

不燃化を進めるために民間出資や東京市・横浜市などの公的資金による協同出資(東京市と横浜市の出資比率は5:1) により大 正15年に復興建築助成株式会社が設立され、昭和18年までの間で東京市859件、横浜市75件の助成実績を挙げました。当時の横浜市中区の鉄筋コンク リート造建物約240棟のうち約3割が助成会社からの助成を受けたものであり、耐火建築化がなかなか進まなかった当時において貢献度は高かったようです。 (以上、栢木まどか・伊藤裕久、横浜における復興建築助成株式会社と共同建築、日本建築学会大会学術講演梗概集2005年を参考)

伊勢佐木町商店街界隈にのこるイセビルと伊勢佐木町共同建築ビル(一部)は、現在も当時の面影を残しています。

昭和2年建築のイセビル。現在も伊勢佐木町商店街のゲート脇に建ち商店街を象徴する建物のひとつとなっている。復興建築助成株式会社の横浜市における第一号。昭和4年には助成会社の横浜支店がここに置かれた。当時の市会議員上保慶三郎氏による建築として、「ビルディング 素描(其の二)『大横浜』1930年第3号」には「復興建築の尖端を押し切つて進んだ勇気は推賞に値する」とある。茶色のタイルで縁取りされたアーチ型の窓が特徴的。終戦後は占領軍により接収された。

旧伊勢佐木町共同建築ビル(一部)。昭和3年建築で3人の施主が間口を分け合うかたちのコンクリート長屋だった。共用部分をもたないため3つの独立階段が用意され、このうち北側の1戸が建て替えられているが、南側の2戸分が残っている。かなり改変されているが、独立階段室のファサード意匠はよく保存されている。

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