接収当時、一帯が飛行場として使用されていた若葉町。いまはその細長い町の形状だけがわずかに接収当時のようすを伝えています。
90年代以降、若葉町は外国出身の人たちが多く移り住むまちに変わりました。日本一の「タイ・ストリート」と呼ばれたこともあるほど、現在は国際色豊かな裏繁華街へと変貌しています。3丁目には2スクリーンのミニシアター「ジャック&ベティ」があります。前身は接収解除後の昭和27年クリスマスにオープンした「横浜名画座」。一度は閉館したこの映画館を再開させたのは横浜生まれの若き経営者たちでした。ウェブサイトに「一日中、映画と若葉町に染まってほしい。」とあるように、街ぐるみの「よこはま若葉町多文化映画祭」なども開催されています。
若葉町にはもうひとつ、戦後の焼け跡から始まった伝説の居酒屋「根岸家」が2丁目にありました。和食、洋食、ありあらゆるとメニューがあり、24時間営業で年中無休。バンドが入り、米兵も出入りし、値段も庶民的で多くの市民に親しまれたそうです。しかしオリンピックの頃を境に次第に賑わいを失い、昭和55年閉店。直後に出火に見舞われ焼失しました。
若葉町2丁目共同ビルは、この根岸家の向かいに立地していました。3名の建築主と神奈川県住宅公社との併存型の共同ビル。県公社事業としては第一号の原ビルと同年度の最初期のものです。3階・4階に住戸が積まれ、廊下側ではなく居室側が道路に面して並べられているため、1・2階の店舗部分と一体感のあるファサードをつくりだしています。裏には木造二階家も増築されているようです。
ビル下層階の店舗群、一体感のあるファサード、加えて住居の集積と裏の増築などによって、アジア的な雰囲気がさらに強化されているようにも見えます。根岸家が向かいにあったころはどのような賑わいの通りだったのでしょうか。
これまでも、そしてこれからも、横浜のサブカルチャーの発信源として、人と店の入れ替わりをしなやかに受け入れながら庶民の歴史と文化を生み出す空間であってほしいと思います。
(参考:
融資建築のアルバム、建築助成公社20年史、「聞き書き 横濱物語」(聞き書き/小田豊二、シネマジャック&ベティ公式ウェブサイト)
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竣工当時の若葉町2丁目共同ビル。1・2階は店舗、3・4階は住居として計画されているが、2階と3・4階部分の外観上の違いはない。写真左右端にそれぞれ上階へのアプローチが設けられている。 |
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NEGISHIYAの看板が見える当時の根岸家の写真。ROBERT HUFFSTUTTER氏のflickerサイトによると日本的な風景として屋根上のようす(roofs)に目を奪われたとのこと。1961年撮影。 |
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現在の若葉町2丁目共同ビル。夜は飲食店が開き、裏繁華街の様相をみせる。日中は住民の生活感がただよう静かなたたずまい。建物裏側には木造2階家が増築されている。写真左側の道向かいにかつて根岸家が建っていた。どちらかというと裏通りの宿命か、近年、周辺には時間貸し駐車場などが広がりつつある。 |
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