2013年12月27日金曜日

太田一ビル

横浜公園にほど近い、太田町通り1丁目にたつ太田一ビル。

建築助成公社から昭和34年度融資を受けて、野中英雄・菱川泰祐の両名によって建てられた共同ビル。施工は「神奈川県土木」とあり、防火帯建築のなかでははじめての直営工事だったようです。特別の技術を要したか、模範工事の位置づけだったか。(詳細確認したところ、民間企業の「神奈川県土木建築株式会社」であり、直営工事ではありませんでした(2017.1.12訂正)。)

ここは昭和28年に設立された野中貿易株式会社の本店所在地になりました(現在は太田町4丁目に移転)。野中貿易の前身は1917(大正5)年市内(元町)創業の野中楽器店。貿易都市として発展しつつあった横浜の地で、世界中からすぐれた楽器を輸入する代理店として創業。現在は「輸入プロフェッショナルサクソフォンの市場占有率90%以上、輸入プロフェッショナルトランペットの60%」(会社概要による)のシェアを誇る国内有数の楽器輸入代理店へと成長しています。

太田町通りは、弁天通りから一本内陸側に入った通り。華やかな弁天通りに比べるともともとあまり目立たない通りでしたが、関内では弁天通り、常盤町に次いで高額納税者が多かった地区(大正5年統計)。会社や銀行が並ぶビジネス街でした。

しかし、戦後の接収によって通りの様相は一変します。太田町・相生町・住吉町・常盤町・尾上町の各1~3丁目は占領軍によってまとめてモータープールとして使用され、残存建物のほとんどが除却。通りも姿を消します。

いま、太田町通りを横浜公園側に進むと日本銀行横浜支店にたどり着きます。接収解除後に横浜市が区画整理と並行して民有地を取得し、日銀が市内に分散所有していた土地と等価交換の形で確保した約2000㎡の広大な敷地。復興を加速させるために支店立地は政財界の悲願。モータープールとして一帯を接収され、ゼロベースからの復興だったからこそできた事業ともいえます。

今年、野中貿易株式会社は株式会社として再スタートして60周年を迎えました。

戦災・接収を乗り越え継承されてきた歴史ももちろん大切ですが、戦後のゼロベースからの創造と未来への投資の意味を振り返ることも大切ではないでしょうか。

(参考:野中貿易株式会社会社概要、日本銀行横浜支店ウェブサイト、中区史、図説「横浜の歴史」、横浜市建築助成公社20年史ほか)


昭和22年ごろのようす。左上に横浜公園がみえる。写真に含まれる一帯(太田町・相生町・住吉町・常盤町・尾上町の1~3丁目エリア)は占領軍のモータープールとして接収された。(出典:写真集「昭和の横浜」横浜市史資料室)

米国国立公文書館蔵の「YOKOHAMA CITY MAP」。モータープールとして接収されたエリア(着色した部分)は、単一用途としては関内で最大エリアの接収区域であったことがわかる。

現在の太田一ビル。4階建てと3階建てが一体となった共同ビル。おそらく2名の共同建築主の土地所有区分と対応している。3階建ての方が当初の共同ビル(4階建ては後の増築部分)。壁面から少し深さをとって配されたガラスの水平窓、さらにその室内側に柱が隠されている。創和設計の作品。


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2013年12月16日月曜日

尾上町共同ビル

尾上町通りは桜木町駅から大江橋をわたり、まっすぐ横浜市役所に通じる通り。市電が走っていた時代には横浜公園を回り込みながらそのまま本牧まで市電が通っていました。

現在の市役所は7代目にあたりますが、2代目、4代目、7代目の市役所はいずれも現在とほぼ同じ場所に建てられていました。それ以外の場所に建てられていた時期は、開港後の臨時市役所として(初代)、関東大震災や第二次大戦による焼失にともなう一時的市役所だったり(3代目、5代目)と、いずれも暫定的な立地であり、尾上町通り沿いの現在の位置がほぼ定位置だったことがわかります。

建築基準法の前身である市街地建築物法が1919年に施行されてすぐに、この通り沿いは防火地区に指定されました。さらに関東大震災後には土地区画整理によって道路が拡幅、防火地区は戦災復興時の防火建築帯指定にもひきつがれました。

こうしたなかで、尾上町共同ビルは接収解除後の昭和31年に竣工した県公社との併存ビル。施工は大正13年に桜木町で創業した紅梅組。店舗は1階のみで2階から4階に12戸の公社住宅が計画されています(現在は払い下げられています)。1階で営業をつづける中華料理店は竣工後まもなく入居、創業60年近い老舗飲食店です。

おなじ尾上町3丁目のブロックには戦前まで市内有数のダンスホール「カルトンダンスホール」が立地していました。横浜は西洋からダンスが輸入され庶民の暮らしに最初に根付いた場所。少しずつ戦時色をおびていくなかで昭和15年10月末に廃止されますが、昭和21年に営業許可が再開。横浜中心部の市電停留所の前でダンス教室がないところはなかったといわれるほどに復興していきます。

防火地区としても早くから最重要の位置づけとされた尾上町通り。一方で警察の許可がないと開けなかったダンスホールが、市役所の目と鼻の先で戦前から立地し根付いていた通りでもありました。

官と民の近さ、垣根の低さも横浜のアイデンティティのひとつではないでしょうか。
(参考:建築助成公社20年史、写真集「昭和の横浜」(横浜市史資料室)、有隣第391号、株式会社紅梅組会社概要ほか)


竣工当時の尾上町共同ビル。1階にはまだ空き店舗もみられる。西側2スパンは出店準備中だろうか。片廊下型で階段室はひとつ。商栄ビル、長者ビルのように住宅のバルコニー側が道路に面するのではなく、玄関側が通りに面している。このため少し閉じた印象。

戦前まで尾上町3丁目ブロックに立地していたカルトンダンスホール。今和次郎らによって考現学採集の対象ともなった。このカルトンホールは市内の他のダンスホールに比べてかなり賑わっていたとの記述あり(出典:考現学採集(モデルノロジオ)今和次郎ほか)。

現在の市役所庁舎が建築された直後に屋上から撮られた写真。眼下に市電の通る尾上町通り、通りの向かいに「フレンドダンス教室」の看板(写真右下)がみえる。こうした娯楽の復興も市民にとっての戦後復興の象徴だった。(昭和34年撮影、横浜市史資料室)

現在の尾上町共同ビル。歩道の銀杏並木が大きく成長した。西側2スパンの中華料理店は創業60年近い。接収解除後の横浜関内の戦後復興をずっとみてきた。東側には「関内イセビル」が隣接している。


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2013年12月3日火曜日

都橋商店街ビル

2020年に2回目の東京オリンピック開催が決まりました。

1回目の開催は1964年のこと。「もはや戦後ではない」(1954年)と謳われた経済白書から10年。東京オリンピックは日本経済の回復と国際社会への復帰を強く印象づけるものとなりました。

横浜は東京にほど近く、バレーボールの予選会場として横浜文化体育館が選ばれました。しかし横浜は他都市よりも10年は復興が遅れていました。接収解除の遅れから、横浜の「戦後」はまだ終わっていなかったのです。

都橋商店街ビルは、1964年、野毛本通りの美観向上と道路整備を図ることを目的に、露天商たちを収容するために急遽つくられた商店街ビルでした。周辺に適当な移転地はなく、公有地の大岡川河川敷(護岸敷と河川上空)を占有する形で横浜市が建築(横浜市建築助成公社への委託事業)し、商業者の組合(横浜野毛商業協同組合)に賃貸する異例の方法がとられました。

それまで野毛本通りや野毛銀座通りの路上、桜木町駅の周辺には、接収によって関内を追われた露天商たちが闇市を形成していました。カストリ横丁、クジラ横丁などとも呼ばれ、取締りと不法占拠の繰り返しのなかで、彼らはここから再起をはかっていたのです。

露天商ではないものの、野毛の洋食屋「洋食キムラ」さん(初代:貴邑富士太郎)も関内を追われて野毛で再起をはかったひとり。接収のため関内・常盤町から知人のつてを頼り花咲町へ。初代が亡くなった後、二代目の悟氏が平成6年に野毛本通りに新店舗を出します。

関内を追われ、闇市から再起をはかり合法的な居場所をかちとった露天商たち。
関内を追われ、転々としながら野毛で根をおろし店を継いでいくことを決心した洋食店の父子。

戦災と長期接収からの復興は、関内に帰還をはたした人たちだけの物語ではなかったのです。

(参考:横浜市建築助成公社20年誌、40年誌。野毛の河童ー洋食キムラ五十年ー。ほか)

野毛本通りは戦後しばらくの間、露天商が道路脇に建ち並んでいた。ここに来れば何でも揃うと言われるほどにぎわっていた。(写真:広瀬始親)

東京五輪を機に露天商たちが収容された都橋商店街ビル。建設当時は1階には物販店が並び、飲食店は2階に集められていた。川沿いの弓なりの建物形状が独特の雰囲気を生み出している。(出典:写真集「昭和の横浜」横浜市史資料室)

現在は1・2階のほとんどが飲食店になっている。このため昼と夜とでビルの姿は一変する。垂直にそびえるランドマークタワーとのコントラストが印象的。


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2013年11月22日金曜日

第一大場ビル(現存せず)

長者町三丁目交差点に、かつて3棟の防火帯建築が向かい合って建っていました。

長者町三丁目側に建っていた第一大場ビルもその一つ。昭和30年度融資を受けて神奈川県住宅公社との併存型の共同ビルとして建てられました。施工は関工務店、建築主は大場ハナ氏。大場氏は交差点対角側のビル(第二大場ビル)も所有。いずれも現存していませんが、大場氏はこのあたり一帯の大地主だったようです。

その後、ある質屋が自動車販売店とともに第一大場ビルを買い取り入居します。戦後に磯子根岸橋で開業したのちに、裏通りの質屋から表通りの質屋へ。市電が通る長者町通りとみなと大通りがクロスする交差点に建つこの建物が選ばれました。時代を先読みした父の事業を引き継ぎ、中古ブランド品を取り扱う専門店のパイオニアへと成長させた息子。このように、横浜の戦後復興は横浜商人たちがつくりだし受け継ぎ成長させてきたものでもありました。

みなと大通りを港にむかって歩くと 開港記念会館、県庁、横浜税関、と「ジャック」「キング」「クイーン」の愛称で親しまれている近代建築3塔に出会えます。でも、港を背にまっすぐ関外に向けて歩いてみてください。

接収解除後の横浜復興を象徴する横浜市役所(昭和34年、村野藤吾設計)、線路を超えてまもなく見えてくる横浜文化体育館(昭和37年)はいずれも開港100周年事業としてとりくまれたものでした。万代町の日ノ出川公園は、接収解除後に行われた戦災復興土地区画整理事業によって生み出されたもの。いまは市民の貴重な憩いの場所となっています。そして市電の通る長者町三丁目交差点へ。

この交差点は、開港以来脈々とつづく横浜の歴史と庶民の暮らしがクロスする交差点なのです。

(参考:株式会社アールケイエンタープライズ会社概要、融資建築のアルバム(横浜市建築助成公社)、ほか)

竣工当時の第一大場ビル。手前に市電の線路や架線がみえる。

2000年ごろの第一大場ビル。ファサードは当時のままだが、下層階店舗は界壁をとりのぞいたり内外装をリニューアルするなどかなり手が入れられている。

質カドヤの刻印が残る第一大場ビル。横浜の戦後復興は商人たちの復興・成長の歴史でもあった。



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2013年11月11日月曜日

野田ビル・馬車道会館ビル

「会館」という名前のつけられたユニークなビル。馬車道通りに面しているので馬車道会館という名称ですが、南北筋は住吉町通り(5丁目)にも面しています。野田ビルはその後分けてつけられたビル名のようですが建物としてはいまも一体です。

住吉町5丁目、6丁目界隈は、かつてかなり道が入り組んでおり、幅も狭く地割りも複雑な地区でした。関東大震災を契機に、土地区画整理事業が適用されましたが、反対住民も多く事業は難航しました。当時横浜市復興会の会長をつとめていた原富太郎はこの局面を乗り越えるために地域に交和会を設け地域の実情に沿った補償を約束、ようやく事業は軌道に乗り、現在に至る区画割りが誕生することになります。(参考:中区史)

この5丁目界隈には、接収解除から間もない昭和31年に鉄筋4階建ての問屋ビル、33年には第二問屋ビルが建てられます。この2つの問屋ビルはそれぞれ神奈川県住宅公社、日本住宅公団との併存住宅でした。いずれも現存していませんが、建設の目的は戦災と接収で各地に分散してしまった問屋や卸売り業者にもういちど戻ってきてもらう問屋街構想にありました。

ほぼ時期を同じくして、昭和30年度融資を受けて鉄筋3階建ての馬車道会館ビルが建てられます。4名の建築主による共同ビル。このころはまだ、住吉町4丁目に横浜宝塚劇場、旧中区役所が立地し、また、戦後には5丁目に横浜東宝会館も開館したばかり。昭和35年までは横浜興信銀行(現横浜銀行)本店もこの通りにありました。

賑やかな馬車道通り、弁天通り、伊勢佐木町通りなどと比べてみると、落ち着いた文化芸術の通り・産業振興の拠点としての性格が強かった住吉町通り。馬車道会館ビルの建設と、「会館」という名称には、同じ目標を共有する商店、企業に集まって(戻って)欲しいという思いが込められていたのではないでしょうか。

関東大震災前は住吉町5、6丁目付近は道が入り組み地割りも複雑だった。桜木町駅にも近いことから、震災復興の土地区画整理事業の重点エリアの一つだった。現在はこの場所に「六道の辻通り」の石碑が建てられている。(「大正調査番地入横浜市全図」(有隣堂出版部1920年)より引用)

竣工当時の馬車道会館ビル。馬車道通りと住吉町通りが交わる場所に建てられている。ガラスの窓面がいっぱいにとられ、どの場所も明るいフロアとなるように配慮されている。(融資建築のアルバム(横浜市建築助成公社)より)

現在の馬車道会館ビルを野田ビル側から望む。上階へのアプローチ階段はビル南西側と北東側の妻面に1箇所ずつ、ビル中央にも上階への階段口が設けられている。北東側の妻面には使わなくなった通用口も確認できるのでこれで合計4つということだろうか。


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2013年10月31日木曜日

早川ビル・吉村ビル

伊勢佐木町と対岸の宮川町を結ぶ宮川橋の通行禁止が解除されたのは終戦から11年以上が過ぎた昭和31年10月15日のことでした。

このあたり一帯は商店と住宅地からなる繁華街でしたが、広域に接収されており、橋の通行も禁止されていたためまさに近づくことさえできない区域だったと言えます。

接収解除と同時に、地元で復興計画が協議され、この協議によって福富町東通りから宮川橋に至る延長120mの道路の両側の地区について、モデル商店街建設構想が打ち出されました。建築物の形態を統一し、防火建築帯の指定にも沿う街並みをつくり出すために、横浜市初の建築協定(全国では2番目)が結ばれました。来街者に安心して買い物を楽しんでもらうために建築壁面線の後退も取り決められました。

その後、横浜市建築助成公社から昭和32年度融資を受けて、最初の個別再建型ビルが5人の共同建築主によって建てられます。この5人のうちの1人、早川実氏は地元土地所有者の代表として福富町建築協定委員会の会長を務めていた人物でした。

福富町通りは現在は外国人経営の店舗や夜の繁華街として定着し、かつての伊勢佐木町の裏通りとしての庶民の町の面影を見いだすことは難しくなりましたが、防火帯建築の多くは建て替えられることなく当時の復興建築のようすを今によく伝えています。

5名の建築主による共同ビル。1階部分の壁面後退とアーケードが確認できる。従前の土地所有区分のままだろうか、5つの間口を持つ縦割り所有型の共同ビルとなっている。(横浜市建築助成公社20年史より)

現在の早川ビル・吉村ビル。ビル背面側と屋上には土地所有区分ごとに増築されたり、小屋が建てられている。2、3階にはそれぞれの間口部分1階から独立し てアクセスする計画とされている。向かって左端の間口(早川ビル部分)は上階へのアクセスに加えてビル裏側への抜け道が飲食店街として計画されている。

福富町周辺は戦前は商店や住宅地からなる繁華街として庶民に親しまれていたため、宮川橋の通行禁止が解除されたことは地元民にとってもうれしいことであった(昭和31年)。(写真出典:かながわの記憶、神奈川新聞社)



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2013年10月15日火曜日

長者町二丁目第一・第二共同ビル(現存せず)

数年前に高層マンションに建て替わるまでは、長者町2丁目で約100mにわたる防火建築帯として長い間存在していた2棟のビルです。

昭和34年、35年の融資を受けた事業として、いずれも施工は関工務店によるもの。関工務店はヘルムハウス、山手カトリック教会などのほかに長者町通りを中心に多くの防火帯建築も手がけた明治18年創業の老舗工務店ですが、2009年に残念ながら倒産しています。

長者町二丁目付近は、これまで大きく4つの表情を見せてきた地域です。

最初は明治15年に遊郭移転地として永楽町、真金町が指定されたことに始まります。移転までの仮営業地として長者町1、2丁目付近に店が建ち並び、水天宮周辺で爆発的な賑わいを見せ始めた盛り場としての表情。(水天宮は戦災被害と境内接収のため、現在は南区南太田に移っている)

次に大正8年に発生した埋地火事(3248戸焼失、罹災・負傷者2万3千人)の復興過程で、道路が拡幅整備され延焼防止がはかられた市内有数の防火地区としての表情。そして、関東大震災後の復興過程で電車軌道が敷設され市電網が整備された交通の要所としての表情。

埋地地区とその周辺地域は、次第に輸出関連業者や洋服布地の問屋などの職人町として根付いていきます。関内や伊勢佐木町界隈が産業や娯楽の最先端の町になっていったとすれば、埋地地区とその周辺地域は貿易商業都市の発展を陰で支えてきた労働者、技術者の町になっていったわけです。

そして最後は戦災復興でつくられた防火建築帯としての表情。

長者町二丁目の防火帯建築に入居していた、あるピアノ店は、販売業から音楽教室へと事業改革を進めながら、一方でピアノ技術者の父から受け継いだ技能を活かした中古ピアノ販売を続けています。

次にこの町はどのような表情を見せてくれるのでしょうか。
(参考:中区史)

建設中のようす(写真:関工務店社史「彰往考来」より)。写真右端に市電と路面に線路がみえる。写真左側の隅切り部の側壁には将来の防火帯建築延長を見越して窓などの開口部は設けられていなかった。

2000年のころの写真。1階店舗の奥(ビル背面側)には3畳間の和室があったらしい。ビル2棟はいずれも高層マンションに建て替わっている。


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2013年10月1日火曜日

第二イセビルと第三イセビル

防火帯建築にはそれぞれ建築主がいます。建築主は事業者や住宅公社などの企業・団体である場合もあるし個人である場合もあります。

そして、個人のなかには親族(兄弟や子)によって複数の再建ビルを建てた人たちもいます。第二イセビルと第三イセビルもそのひとつ。ほかにも未確認ですが、横浜市建築助成公社から融資を受けた人たちで同姓の場合には同様のケースがあるのかもしれません。

(第一)イセビルは以前ご紹介した、関東大震災後の復興の尖端をきって当時の市会議員上保慶三郎によって建てられたビルでした。

第二イセビルは昭和29年度融資(建築主:上保嘉保)、第三イセビルは昭和31年度融資(建築主:上保元子)を受けて、それぞれ単独再建型のビルとして建てられました。施工はいずれも大林組。

上保慶三郎は、1885(明治18)年、中区扇町生まれ。長崎の露語学校を卒業後、ロシアにわたり洋服やラシャ類を研究し帰国。二十歳の若さで洋品店を開業した人物でした。戦前、戦中にかけて25年間市会議員を務め、敗戦間もない昭和21年1月17日には伊勢佐木町振興会を組織し自ら会長職に就きました。(参考:ハマの建築探検)

戦後、振興会は慶三郎を中心として接収解除陳情を繰り返しながら、返還が叶った土地についてはかつての地権者に店を出すように働きかけていきます。(参考:中区史)

第二イセビル、第三イセビル、もこうした経緯のなかで生まれた防火帯建築。復興の精神は、親から子へ、子から孫へと受け継がれていたのではないでしょうか。

第二イセビル竣工当時のようす。隣り合うビルと共に防火帯を構成しているのがよくわかる。

第二イセビルの現在のようす。竣工当時のままに見えるが、建物裏側はかなり増築されている。2階の窓枠は付け替えられているところが多い。

竣工当時の第三イセビル。何より屋上に設けられた時計台が目を引く。当時はまだ長者町通りに路面電車が通っており、通勤や買物で利用する人たちにとってこの時計台は大切なランドマークだったのではないだろうか。

第三イセビルの現在。時計台が姿を消してしまっているのが残念。


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2013年9月20日金曜日

山田ビル

県立歴史博物館(旧横浜正金銀行)のすぐ近くの太田町通りに沿ってこのビルは建っています。

このあたり一帯は、吉田新田の埋め立てにつづいて重要な埋め立て事業が行われた場所。吉田新田が吉田勘兵衛によって埋め立てられ、いまの吉田町の町名の由来にもなっているのと同じように、このあたりは江戸末期に太田敬明によって埋め立てられ、いまの太田町の町名の由来にもなっています。

山田ビルは、昭和28年度融資を受けて3階建ての個別再建型ビルとして建てられました。竣工当時の写真をみると、ビル北側には将来の増築を見越した角だしの処理がみられ、実際に昭和33年度に再度の融資を受けて4階建てのビルを増築します。

いずれも施工を請け負ったのは(株)白井組。明治7年に中区常盤町で創業した横浜の老舗工務店のひとつです(当時の屋号は「大庄」)。戦災と接収によって関内を追われ、南区井土ヶ谷、南区新川町と転々と本店を移しながら接収解除を待ちます。長い接収期間を経てようやく関内が接収解除されはじめた昭和28年7月に中区住吉町に復帰。山田ビルは、白井組自身が関内に復帰したのとほぼ同時に手がけた最初の防火帯建築でした。(参考:(株)白井組会社沿革)

ちなみに以前紹介した商栄ビルは目と鼻の先。 山田ビルが少しだけ先に竣工していました。商栄ビルの竣工当時の写真の右奥に見えるのがおそらく竣工直後の山田ビルだろうと思います。

接収解除を機に、次々と立ち上がりはじめた防火帯建築の姿と、同時に再出発・成長していこうとする横浜の老舗工務店の姿がそこにありました。

竣工当時のようす。ビル北側面に将来の増築を見越した角だしの処理がみえる。その後延長して4階建てビルが増築された。これに前後して写真のビル自体も4階建てに増築された。(写真出典:融資建築のアルバム(横浜市建築助成公社))

現在の山田ビル。説明を受けない限り、増築を繰り返したビルには見えない。レンガ調のタイルによる赤茶色の外観が印象的。防火帯建築の外壁の色・材料の移り変わりもさまざまでおもしろい。


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2013年9月13日金曜日

公社住宅に託した夢

吉田町第一名店ビルの一室を、オーナーのご厚意で見せていただきました。

この20年ほど、誰にも貸さずに静かに閉じられていた40㎡程度の小さな住宅です。
建設当時の間取りや設備がほぼそのまま残され、生活様式や設計の苦労がそこかしこに確認できます。
かつてここに暮らしていた方も、きっと大切に住んでいたのだと思います。

吉田町第一名店ビルが建てられた当時、住宅金融公庫から1戸あたり13坪を限度として融資が用意されていました。しかしこの13坪は廊下やバルコニーも含む面積として設定されていたため、片廊下型の集合住宅は1戸あたりの共用部分の占める面積がどうしても増えて不利となり、家族向け住戸を収めるのはほぼ不可能でした。

当時、工務部長(設計技術者集団のトップ)を務めていた石橋逢吉は、次のように述べています。

「十三坪の枠では設計不可能に近く、その為には一室住宅でも造らねばなるまい。(中略)C型は間口が足りない場合使うが、直接日照のない居室ができるが一応各室の独立性は保っている。」(雑誌住宅1957年6月)

C型とは、県公社が考案していた3つの型式プランのなかのひとつ。最も小さなもの(訂正2015.8.27)。吉田町第一名店ビルではこのC型が主に適用されました。公庫の融資の枠に納まらない分は直接家賃に跳ね返りますが、13坪に収まる1室プランの極小住宅を無理矢理つくるのではなく、戸当たり13坪を超えても独立2室プランを固辞したわけです。しかし当然、庶民が払うことのできる家賃の限界もあります。

「住戸間のブロック間仕切りをブチ抜くことによって広さを確保する可能性を留保して置くことだけが我々のはかなきレジスタンス」(前掲)

現代に生きる私たちがこれから描く夢と、技術者たちが試行錯誤の末にのこした仕掛けがいつか重なる日が来るのかもしれません。

奥の居室につながる廊下。真ん中の居室との間には障子戸が設けられている。2室は独立性を保ちながら、この廊下でゆるやかに一体となる。この廊下は、原型 となった公社C型プランでは食堂とされているが、C型よりもさらに間口が狭かったため食堂スペースがとれなかったのだろう。かわりに厨房まわりにスペース がとられ「食事室兼調理室」とされた。
 
今ではほとんど目にすることのできなくなった人研ぎ(人造石研出し)の流し台。ステンレス製の流し台は昭和33年から公団で採用され普及した。隣の浴室にも人研ぎの流しが残る。


バルコニー側の網入りガラスの掃き出し窓。この建物が防火帯建築であることを静かに主張している。

 
住居専用部分の広さに応じて、10坪から14坪の間でA型・B型・C型の3型式が用意された。すべての型式で独立2室の確保と、食事室(独立または調理室兼用)が計画された。(出典前掲)

2013年9月5日木曜日

吉田町第一名店ビル

吉田橋から野毛方面に抜ける道を吉田町本通りと呼びますが、ここに防火帯建築が4棟並んで建っています。真ん中の2棟は隣り合って建っているので見かけ上は3街区3棟にもみえます。

このうち、吉田橋に最も近いのがこの第一名店ビル。8人の建築主と神奈川県住宅公社による共同再建型の併存住宅として建てられ昭和32年3月に入居が始まりました。(昭和30年度事業)

吉田町第一名店ビルが建つ場所は、一帯が占領軍によって接収され米軍キャンプ地となっていた場所。本通りの向かい側(北側)は、かろうじて接収からはずれていました。つまり吉田町本通りは接収の境界線でもあったわけです。

商店主たちは道をはさんだ向かい側の土地で仮設商店街を営みながら将来の帰還に備え、そして悲願の接収解除。県公社との設計協議の過程では、再び元の場所に戻り、商っていく夢をひとつの形にしていきます。このようにして、1・2階が店舗併用住宅として立体的に計画された防火帯建築が生まれました。

現在、おそらくこの第一名店ビルは、関内外の防火帯建築のなかでも最も注目されている建物のひとつ。数年前からバーや飲食店が入居するようになり通りの雰囲気がかわりはじめ、築50年を過ぎた古いコンクリート長屋を活かしたまちづくりが地元町内会・名店街会の若手メンバーを中心に進められています。下層階には、横浜市芸術文化振興財団の芸術不動産リノベーション助成事業をうけてアートスペースが設けられたり、建築設計事務所が入居するなど、アーティストやクリエイターの拠点にもなりつつあります。

2階はもともと住居として計画されていましたが、将来の商業床需要にも対応できるように、天井裏には40cm程度束立てされ余裕空間がとられていました。設計者の配慮が、築後50年を過ぎても使い続けられる空間を生み出しています。

竣工当時のようす。2階は内階段でつながれ住宅として計画された。柱間隔や窓配置のようすから、もともとバラバラだった敷地割りを統合しようとした苦労がみえる。

2013年8月の「まちじゅうビアガーデン」イベントのようす。このほかにも吉田町バーズストリートの開催など、古い街並みを活かしたイベントが企画実施されている。


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2013年8月25日日曜日

長者ビルと第三大場ビル


関外エリアで、日ノ出町方面と山元町方面を結ぶ通りを長者町通りとよびます。

昭和初期には横浜市電(路面電車)が通り、中心部の関内や、関外でも繁華街となっていた伊勢佐木町通りとは違って、庶民的な雰囲気を持つ通りとして親しまれていました。とくに埋地地区とよばれる、運河に囲まれたエリア(寿町、翁町、扇町など)に隣接する長者町1~4丁目は、5~9丁目と比較してとくにそのような(庶民的な)性格が強かったようです。

この埋地地区には、明治中期ごろには、関内の隣接地として輸出貿易関連の家内工業が集まってきていました。産業構造は大きく変わりましたが、今でも長者町通りに自動車やバイク関連の工場や、インテリアや服飾関連の事業所などの同業者が比較的多く見られるのは、その名残といえるかもしれません。

さて、この長者町通りの1~4丁目のなかでも4丁目エリアは目立って防火帯建築の多いエリアです。

確認できるだけでも、この狭いエリアに7棟の防火帯建築が建てられていました。いまはそのうち2棟が残っています。

昭和27年2月、長者町4丁目の借地人有志によって「長者町四丁目復興促進同志会」がつくられ市会議員宛に陳情書が出されました。

「陳情書 私共借地人一同は過去五十年の永きに渡り横浜市中区長者町四丁目に居住し各自営業に従事致して居りましたが、戦時中強制疎開のため止むなく転居し今日に至りたる者であります、その間、県調整連絡事務局、司令部、建築課、地主側等に対し種々懇願運動を続け、一日も早く接収解除の上、前記土地に復帰し町の発展と各自の事業の推進を念願と致して居ります。(後略)」(中区史市民編第3章より)

建物強制疎開、戦災、接収、と二重、三重の苦労を乗り越え、目標を共有する仲間たちが果たした復興の姿でした。

昭和29年度事業の長者ビル。4人の建築主と神奈川県住宅公社との協同によって長者町4丁目に建てられた併存住宅。角の理髪店の部分のみ1・2階店舗、あとは1階のみ店舗として設計された。このため、公社賃貸住戸数は2~4階の計23戸と変則的。(写真:融資建築のアルバム、横浜市建築助成公社より)

1階店舗部分はかなり改装されているが、理髪店は当時から変わっていない。自動車・バイク事業所は建物裏側へ大きく延びガレージが増床されている。上階賃貸住宅部分のかつて格子状だったバルコニー手すりがパネルで目隠しされてしまっているのが意匠的に残念。

個別再建で建てられた第三大場ビル(右端)。明治40年創業の横浜鶏卵(株)の会社所在地。この近辺に第六大場ビルもあることから大場氏はこの一帯の大地主だったのだろうか。(写真:関工務店社史「彰往考来」より)

いまもほぼ竣工当時のままの姿。隣接する小さな付属棟も当時のまま。交差点側(向かって左側)の防火帯建築2棟は神奈川県住宅供給公社が事業主体となり建て替えられた。接地階を商業床として通りの賑わいを継承しつつ新しい都市景観を生みだしている。


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2013年8月19日月曜日

キニヤビル

伊勢佐木町1丁目の、旧松坂屋本館と西館(旧松屋)にはさまれた場所にこのビルは建っています。

旧松坂屋本館と西館(旧松屋)は、横浜市民であれば誰でも知っているデパート建築として、2004年にいずれも横浜市歴史的建造物に認定されましたが、本館は惜しまれながら2008年10月26日に閉店し144年の歴史に幕を閉じました。現在は跡地に3階建ての商業施設が立地しています。

かえって存在感が増した(?)感のあるこのキニヤビルは、昭和28年度事業(融資)として築60年を迎えようとしています。戦災で焼失してしまったこの土地に、接収解除後の早い段階で4人の建築主によって3階建ての共同ビルが建てられました。

施工者は隣に残る旧松坂屋西館(旧松屋)も手がけた大林組。竣工当時の写真をみると、水平基調のモダンなガラスのファサードを覆うように、あえて鉛直方向の意匠を強調するように設けられたコンクリート製ルーバーが特徴的です。だいぶ改修された現在でもどことなくクラシックな雰囲気が漂うのも、この意匠によるところが大きそうです。

このルーバーに屋根面の庇を支える構造的な意味があったのか、それとも単なる意匠的な理由なのか、あるいは日射を緩和する環境的な意味があったのか、定かではありませんが、少なくとも昭和53年に現在のような歩行者専用道としてのモール化工事が行われた直後までは竣工当時のままだったようです。

モール化する前の伊勢佐木町通りは、車道が中央を通り、両側の歩道上にはアーケードが設置されていました。このルーバーには、通行する車や、車道を挟んで反対側の歩道を歩く人たちからよくみえるように、多様な看板設置に対応できる機能的な意味が持たされていたのかもしれません。このような、いわば奥行きのあるファサードを持つ建築は、よくみると伊勢佐木町通りにはいくつかみかけることができます。

通りの主役が車から人間にもどったことが、ファサードの変化をもたらしています。

竣工当時のキニヤビル。2・3階を覆うコンクリート製ルーバーが特徴的。(写真:融資建築のアルバム、横浜市建築助成公社)

現在のキニヤビル。レンガ調のタイルで覆われ雰囲気がずいぶん変わったが一部に竣工当時の面影を残している。モール化によって看板を林立する必要がなくなった。

昭和53年のモール化工事のようす。左側に旧松坂屋本店とキニヤビルがみえる。(写真出典:OLD but NEW イセザキの未来につなぐ散歩道、イセザキ歴史書をつくる会著、神奈川新聞社)

昭和37年8月の伊勢佐木町通り。当時は道幅いっぱいの車で混雑した。歩道上のアーケードと、林立する看板群がみえる。(写真出典同上)


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2013年8月13日火曜日

商栄ビル

馬車道通りにひときわ大きな共同ビルが建っています。

建築主9名と神奈川県住宅公社の協同による併存ビル(昭和29年度事業(昭和30年9月竣工))として、街区をコの字型に囲む配置が特徴的。この配置によって生まれた2面の隅切り壁面には、片方には大きな薬局の看板が掲げられ、もう一方はコンクリートむきだし、と、どちらも存在感たっぷり。

薬局は明治3年創業の老舗。創業当時は「紀伊国屋薬舗」という屋号がつかわれていましたが、家伝の薬「上気平安湯」が評判が良く3代目のときに現在の店舗名に改称。共同ビルの現薬局店舗地下には貯蔵室も設けられており、建築の際に積極的に設計参加したことがうかがえます。

戦前までの旧店舗は戦災により焼失。敗戦後の接収期間中は西区高島町で移転営業するなど厳しい時期もありました。

同ビル内の料理店も明治20年創業の老舗。やはり旧店舗は戦災で焼失し、敗戦後は磯子区でしばらく移転営業していた時期がありました。

戦後の馬車道通りは昭和40年代ごろまでは歩道にアーケードがかかり、日本で最初に街路樹が植えられた面影は失われ、ごく普通の商店街になっていました。その後、商店街活性化を目指した活動が行われ、アーケードが撤去、歩道が拡幅され、街路樹・街路灯やストリートファニチャも整備され現在のような特徴のあるまちなみに生まれ変わりました。

今年で28回目を数える「馬車道まつり」も、街路樹が戻ってきたまちなみに馬車が行き交っていた往事の賑わいを再現して見せてくれます。まちづくり推進の原動力に、開港以来の横浜関内の賑わいを支え続けてきた横浜の老舗商人たちのプライドが垣間見えます。

(参考:平安堂薬局会社概要、馬車道商店街協同組合ウェブサイトなど)

竣工当時の商栄ビル。1階店舗前の歩道上にアーケードが設けられていることがわかる。歩道幅員もいまと比べると狭い。(写真出典:融資建築のアルバム、横浜市建築助成公社)

馬車道まつりのようす。アーケードが撤去され、街路樹が植えられ、歩道が拡幅された。このような空間整備と乗合馬車再現のイベントが融合している。

関内駅側の隅切り壁面。平安堂薬局の大きな看板がひときわ目を引く。創業以来、多くの渡航者がこの老舗薬局で常備薬として「上気平安湯」を買い求めた。


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2013年8月11日日曜日

徳永ビルと車庫棟

防火帯建築のほとんどは関内の旧日本人居住地か、関外に集中しているのですが、なかには関内の旧外国人居留地エリアに建てられたものもあります。

山下町に建つ徳永ビルもそのひとつ。建築主の徳永恵三郎は関東大震災直後の大正12年10月に元町で建設請負業を創業し、元町地区の洋風店舗や住宅の建築を手がけ民間業者として震災復興を支えてきました。

昭和20年3月に現在の徳永ビルの建つ敷地に移転し、戦後は山手の外国人専用住宅や洋館建築、あるいは在日米軍の外国人向け住宅なども手がけてきました。

昭和31年、神奈川県住宅公社との併存住宅として5階建てのビルを建てます。施工は本牧元町の関工務店。戦前の外国人向けアパート「ヘルムハウス」(平成12年解体)も請け負った実績のある指折りの施工業者です。徳永ビルの下層階には会社事務所が入り、当初は外国人向けアパートとしてつくられていました。その後、中庭側に建てられた車庫棟との間に渡されたブリッジが印象的。

このエリアは元町や山下公園、中華街が徒歩圏ということもあり、横浜のなかでも人気の住宅地のひとつ。昭和62年までは近くに同潤会山下町アパートメントも立地していました。現在の徳永ビルにはライブハウスやカフェも入居し、住居部分に入居するランドスケープデザイン事務所は以前、関内外OPEN!2にて、スタジオ公開参加したこともありました。車庫棟にはレンタルサイクル屋や雑貨屋、アートギャラリーなども入居しています。

建物の歴史もおもしろいですが、今がいちばんおもしろい建物のひとつですね。

(参考:徳永リアルエステート会社概要、関内外OPEN!2サイトほか)

竣工当時の外観。当時は1・2階が会社オフィスとして使われていたようだ。(融資建築のアルバム(横浜市建築助成公社)より)

現在は1階は改装されてカフェやライブハウスなどが入居し、通りの表情をつくりだしている。建物右手は中華街の蘇州小路。
ビル背面の中庭。左手の徳永ビル側からの増築、右手の車庫棟との間にわたされたブリッジなどが印象的。中庭に向き合った開放的な階段室のデザインは、閉鎖しがちな現代の集合住宅のそれとは真逆のアプローチで清々しい。奥にはレンタサイクルショップが入居し、その右手には雑貨屋、階段をのぼるとアートギャラリーやデッキスペースなど魅力がいっぱい。


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2013年8月8日木曜日

萬国貿易ビルと早川ビル

横浜市建築助成公社が耐火建築融資をはじめたのは昭和27年度から。

初年度に7棟の防火帯建築が建てられていましたが、すべて建築主は1名による個別再建でした。
最小のものは建築面積が50㎡にも満たず、最大でも253㎡といずれも小規模なビルばかりでしたが、横浜の戦後復興はここから本格的にはじまったのです。

そしてこの7棟のうち5棟が万国橋通りと馬車道通りに面しています(うち3棟が現存)。
本町通りからみて海側が万国橋通り、陸側が馬車道通りで、この二つの道は横浜港初の近代的な埠頭として明治後期から大正にかけて建設された新港埠頭と吉田橋をつなぐひとつの道です。

弁天通りが、1872年に開通した桜木町駅を利用する外国人や日本人向けににぎわってきたのに対して、万国橋通りや馬車道通りは、船が停泊して荷物や人が往来する通りとして栄えてきました。吉田橋の先にはさらに伊勢佐木町通りへと続きます。

接収解除後に真っ先に立ち上がったこれらのビルから、復興を待ち望んでいた横浜商人の期待と底力を感じることができます。

横浜市建築助成公社による融資第一号の(融資第一号は港ビルでした。訂正します。2015.10.10)初年度融資を受けた萬国貿易ビル。当時の写真をみるとホテルとして使われていたことがわかる。戦後まで関内でしばらくみられた移民宿の名残りか、あるいは、外国人向けか。おそらく後者か。ガラス窓は、蔀戸のように開閉する形式のものだったらしい。

現在はギャラリーや設計事務所、セレクトショップなどが入居している。当時のスチールサッシは1階の一部にのこっているが開閉はできなくなっている。

馬車道通りの早川ビル。現在は2、3階に指圧・マッサージの治療院が入っているが、竣工当時はレストランだった。隅切り部に上階のエントランスが設けられためずらしい設計。

隣接するビルの側には外階段が設けられていたが、現在は取り除かれ、壁面に鉄扉だけが残されている。


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