2014年11月27日木曜日

富士見町共同ビル

長者町3丁目交差点から内陸側に3ブロック。T字路の角に富士見町共同ビルは建っています。横浜市建築助成公社から融資を受けて昭和33年度事業として建てられた第一タクシー(株)(当時)と神奈川県住宅公社による共同再建(併存住宅)ビル。施工は長者町通りでも共同ビルを建設中だった関工務店が請け負っていました。

永楽町・真金町は、かつての遊郭街の名残をとどめる町。遊郭が永楽町・真金町に移ってきたのは明治15年ごろまでさかのぼります。山田町、富士見町の3、4丁目をふくむ一帯が遊郭移転地に指定され、このときに町名が「永楽町」「真金町」へ変更されました。妓楼が建ち並び、の並木が演出する異世界へ。伊勢佐木町から近かったこともあり人が流れ込み急速に盛り場へ変貌を遂げていました。

一方で、道をはさんだ山田町、富士見町側は職人町として、輸出の下請け業者が集まっていた労働者の町でした。大正9年には富士見町に職業紹介所が設置され、労働力供給の拠点ともなっていました。

戦災で大きな被害を受けたのち、山田町、富士見町側だけが占領軍に接収されました。つまり、山田町・富士見町と、永楽町・真金町との町境の通りは、占領軍による接収地と非接収地の境界線となりました。もともとひとつだった町は、遊郭移転を機に道を挟んでふたつに別れ、戦後もそれぞれ異なる運命を辿りはじめたわけです。

そして接収解除。山田町、富士見町には神奈川県住宅公社や日本住宅公団によって復興住宅団地が防火帯建築として次々に建てられました。現在、公社住宅と公団住宅は建替えによって高層化され、計672戸の都心賃貸(URは一部分譲)、約2千人が暮らす住宅地に成長しました。

富士見町共同ビルは、終戦後10年以上経って、この街がようやく戦後の第一歩を踏み出した姿を残しています。

(参考:横浜市建築助成公社20年誌、中区史、横浜関内地区の戦後復興と市街地共同ビル(神奈川県住宅供給公社)ほか)

横浜市防火建築帯造成状況図(昭和33年)から。富士見町(永楽町側)のL字型の建物が富士見町共同ビル。住宅公団の山田町アパートは、防火帯とは関係なく南面並行配置が徹底されている。中央下(千歳公園東隣)の5棟の建物は神奈川県住宅公社の山田町第一・第二共同ビル。昭和36年に公団山田町アパートの隣地に県公社が山田町第三共同ビルを建てることになるがまだ載っていない。濃い赤は竣工済み、ピンクは計画決定、オレンジが防火帯の造成構想。造成途上のようすがよくわかる。

富士見町共同ビルの竣工当時の写真(県公社資料より)。施工は関工務店。このころになると、下層階の店舗、隅切り部の意匠、通りにバルコニーを向けて街区内部に片廊下を置く配置、街区内部への引き込み動線を兼ねた両側外階段など、横浜における防火帯の建築言語が整ってくる。

富士見町共同ビルの現在のようす。竣工当時の外観をよく残している。下層階には、不動産、バイクショップ、中古車販売、飲食店などが入る。

街区内部への引き込み動線を兼ねた外階段。側壁は防火帯の延長を予測しているのか両側ともに窓もなくのっぺりとしたもの。街区内部は時間貸し駐車場となっており、空地をつくりだす防火帯建築のねらいを体験できる。


2014年10月31日金曜日

伊勢佐木町センタービル

伊勢佐木町通りと長者町通りが交差するところ、関内からみて長者町通りを渡った伊勢佐木町3丁目側にこのビルは建っています。

向かいには日本初の洋画専門館として明治44年に創業した旧横浜オデオン座(現ニューオデオンビル)が建ち、このあたりは明治後半には既に日本屈指の西洋文化の発信地となっていた場所です。
旧オデオン座はその後、関東大震災からの再建を果たし、しかし、敗戦後占領軍によって昭和30年までのちょうど10年間「オクタゴンシアター」として接収されつづけます。

オデオン座がようやく接収解除されようとするころ、昭和29年度事業として、横浜市建築助成公社から助成をうけて六者共同による共同ビルが建てられました。このころ伊勢佐木町通りにはすでに数棟の共同ビルが建ち始めていましたが、六者によるものはこれが初めてであり、かつてない規模のプロジェクトとなりました。

横浜は開港後、明治期までは弁天通りと馬車道通りの交差するあたりが最も地価が高かったと言われています。大正期にはこれが伊勢佐木町と吉田町の交差点に移り、昭和に入り市電網が充実してくるころには伊勢佐木町と長者町の交差点あたりに移ります。

戦後復興の時代、かつてない規模のプロジェクトを実現に至らしめたのは、このあたりにまだ横浜の中心地、伊勢佐木町の中心地としての熱気が残っていたからなのかもしれません。ビルの名前はそのことを主張しているようにも見えます。

港、関内から伊勢佐木、吉田町、そして長者町へ。横浜の中心地の内陸への移動は都市の発展を象徴していました。しかし、その後の横浜駅周辺の急速な発展によって、昭和40年頃にはその地位を横浜駅に譲ります。

映画館、市電がまちから姿を消し、長者町通りは車の道、伊勢佐木町通りは歩行者の道へと姿を変えました。60年にわたって建ち続けているこのビルは、確かにかつてここが中心地であったことをいまでも教えてくれます。

(参考:横浜市建築助成公社20年誌、融資建築のアルバム、横浜市電が走った街 今昔、有隣No.434ほか)

昭和29年度事業、六者共同による共同ビル。3層と比較的低く構えた外観と、長者町通り・伊勢佐木町通りのそれぞれに面したガラスのカーテンウォールが水平的な広がりを強調している。隅切り部にもガラス面があるが垂直に設けられたルーバーの装飾がアクセント。(「融資建築のアルバム」より引用)

現在もほぼ竣工当時の外観を保っているが、看板や窓面パネル、街路樹などで隠れている部分も多い。建物としては一体であるが、分割所有のため個別に修繕が行われているのだろう。

伊勢佐木町センタービルの看板から、かつてここが中心地であったことを想像することができる。

昭和31年5月8日の写真(「横浜市電が走った街 今昔」より引用)。長者町通りを走る市電の向こうに、接収解除されたばかりの旧オデオン座と竣工したばかりの伊勢佐木町センタービルがみえる。手前には横浜ピカデリー劇場の建物。


2014年9月25日木曜日

幻の横浜中央ビル

たまたま古い神奈川新聞を見ていたら、興味深い記事を見つけました。

「馬車道に大ビル-工費一億円で四階建て-接収地解放後の計画」
(昭和25年2月11日、神奈川新聞1面)

「伊勢佐木町飛行場跡解放の朗報に引き続き、横浜市のメーンストリート中区尾上町馬車道の一部が米軍の好意によって解放されることになり、期待される市街地解放のさきがけとして明るい希望を市民に抱かせている。」との書き出しで始まり、

「伊勢佐木町解放に際してのイザコザもあったので、復興建築の衛にあたる尾上町復興協栄会では・・(中略)・・地下一階、地上四階の鉄筋コンクリート・ビル(延二千坪)を建設することになり”横浜中央ビル”の名で総工費一億三千万円を計上・・(中略)・・地下、一階は商店街とし、二、三、四階は銀行、保険会社、一般会社の事務所などにあて・・(後略)」とあります。

地下と一階を商店街にしようとしていたこと、 そして何より「横浜中央ビル」(関内中央ビルではなく)という名前を与えようとしていたことが戦後復興の時代を物語っている気がします。

さて、現実には横浜中央ビルは建設されることはありませんでした。いま現地には「昭和28年度表彰建築物」を掲げた地上6階建ての旧大和銀行ビルが建っています。

なぜ半分の敷地となったのか、なぜ商店街構想はなくなったのか、昭和25年から28年の間にいったい何が起きたのか、興味は尽きません。

少し経った昭和38年に、関内大通りをはさんだ尾上町3丁目に横浜第一有楽ビルが建設されました。このビルには一階と地階に商店街が設けられています。当時の横浜市電(路面電車)の停車場周辺の賑わいの声が聞こえてきそうです。

馬車道側から横浜中央ビル(予想図)を望む。商店街と銀行やオフィスの複合建築を構想していた。もし実際に完成していたら、馬車道通り、関内大通り、尾上町通りの3つの通りに面する建物となっていた。(出典:神奈川新聞、昭和25年2月11日)

関内大通り側から旧大和銀行ビルを望む。いまは地下鉄の入り口が以前駐車場だった場所に設けられている。横浜中央ビル構想は関内大通りから馬車道通りまでの敷地をひとまとめにした大がかりな共同建築の構想だったが、何らかの理由で共同化を断念したのだろうか。

昭和28年度表彰建築物のプレートが、交差点側に向けて建物入り口脇に掲げられている。建築主は大和銀行。

関内大通りを挟んで向かいに建つ横浜第一有楽ビル(昭和38年)には、地階に商店街(地下店舗)が設けられている。通り抜けも可能。

2014年8月6日水曜日

旧三井物産横浜支店倉庫

8月5日に開催された旧三井物産株式会社横浜支店倉庫の保存を考える緊急シンポジウム」(公益社団法人 横浜歴史資産調査会(ヨコハマヘリテイジ)主催)に参加しました。

詳細は日本建築学会関東支部による保存活用要望書(リンク先pdfデータ)にまとめられており、今後シンポジウムを受けてヨコハマヘリテイジからも緊急アピールがまとめられることになっています。

関東大震災前から残る建築物として、それだけでも貴重な建築ですが、さらに以下の点で横浜にとって欠かせない建築であることがわかりました。昨年三井物産から取得した所有者は今月中には取り壊す予定とのこと。

・倉庫も事務所ビルも日本のRC造の先駆者、遠藤於菟により設計された建築であること。
・倉庫はレンガ、木、RCの混構造であり、実験的かつ全RC造(事務所ビル)への移行期の建築であること。
・事務所ビルの方は日本最初の全RC造によるオフィスビルであること。
・関東大震災以前は個々の商社が自前の倉庫に生糸を保管し取引していたが、このことがわかる唯一の建築であること。
・関東大震災から3週間足らずの間に貿易商たちは生糸取引を再開した(横浜復興誌)が、被災を免れた倉庫内の生糸が再開の足がかりになった可能性があること。

9月1日は関東大震災が発生して91年目を迎える日です。
大震災も戦災(空襲)も耐え抜いて復興を支えてきた建築、生糸貿易の遺産が、9月1日を前に所有者の手によって取り壊されるかもしれないというのは横浜にとって悲劇です。

先人たちの労苦と横浜の発展の歴史に、一人一人の市民が関心を寄せることが何より重要であることを痛感しました。そして、今回の件が、旧三井物産倉庫を残すか残さないかだけに終始してしまうと、将来また同じ問題を引き起こしかねない危機感も感じました。

接収解除後の融資第一号防火帯建築「萬国貿易ビル」も、今年に入り、人知れず姿を消していました。

旧三井物産横浜支店倉庫(左)と事務所ビル(右)。関東大震災後に生糸検査所が設けられる前は、個々の商社が自前で保管倉庫を持っていた。



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2014年7月31日木曜日

第2期連載をはじめます。

しばらく休止状態でしたが、横浜の防火帯建築の連載を再開します。第2期として、また半年ほどかけて、30棟ほどの建築や建築にまつわる話題をご紹介できればと思っています。少しタイトルを変えました。

2014年2月26日水曜日

原富太郎と原良三郎

今回は建築ではなく、横浜の復興を語る上で欠かせない2人の民間人の紹介です。

原富太郎氏は慶応4年(1868年)生まれ。1892年に横浜関内の豪商・原善三郎の孫・屋寿(やす)と結婚し原家に入りました。原家は代々生糸の輸出貿易に関わってきた商家であり、富太郎は人望厚く商才に長ける実業家としてすぐに頭角を現していきます。京都や鎌倉から移築した古建築のコレクションである三渓園は市民向けに無料開園されるなど文化事業、慈善事業にも早くから熱心な人物でした。

1923年、富太郎が54歳のとき関東一帯を大震災が襲います。横浜は市街地のほとんどを焼失(被災率95%超)。富太郎は震災を機に一切のコレクション活動を辞め、横浜市復興会会長を務めながら昭和14年に70歳で亡くなるまで、横浜の復興、とくに生糸産業の復興に私財を投じ心血を注いでいきます。

このころの横浜は大都市東京に比べれば人口規模で1/5(東京市が当時約220万人であったのに対して横浜市は42万人)に満たず、都市の歴史はわずか60年あまり。帝都復興事業でも東京と比べて横浜の地位はきわめて低い扱いとなりました

「・・国家の援助にまたなくてはならないのは当然でありますが、しかしこれとても、われわれは先ず自ら背水の陣を布いて、身を捨ててかからなければ、他からの同情も期待できるものではありません。われわれは横浜という焼け残りの孤城に踏みとどまり、ここに籠城して必死の戦をたたかい、若し事ならなかったならば、ともに枕をならべて討死する。その覚悟で以って臨まなくてはならぬと信ずるのであります。・・」(第一回横浜市復興会での原富太郎スピーチより)

原良三郎氏は明治29年(1896年)に富太郎の次男として生まれます。関東大震災当時は米国コロンビア大学に留学中。その後帰国し、兄善一郎の急逝を受けて富太郎の事業を引き継ぎます。そして迎えた終戦。横浜は5月29日の大空襲によって市街地のほとんどを焼失していました。

戦後、良三郎氏は戦災被害を受けた三渓園を私鉄の買収提案を蹴って横浜市に寄付。富太郎の残したコレクションの出版(三渓画集)に取りかかります。ようやく横浜が接収解除されはじめた昭和28年、今度は防火帯建築による市街地復興を模索していた神奈川県住宅公社から良三郎に白羽の矢がたちます。焼け野原となった関内にビルを建てても誰も来ないと敬遠され続けた事業計画に、良三郎氏は病床から応えます。

「万一これが不成功に了っても横浜復興の捨て石になれば本懐」(「住宅屋三十年」畔柳安雄)


震災復興の中心として奔走した父・富太郎氏に、戦災復興の矢面に立った自分を重ねていたと思うのは考えすぎでしょうか。父に比べれば決して目立った活動をしていたわけではありませんが、県公社による防火帯建築第一号となった原ビル以降、徐々に共同ビルの申し込みが増えていったことを踏まえると、良三郎氏の遺した足跡、引き継いだ精神もまた、横浜にとってかけがえのない財産であろうと思います。
(参考:横浜市復興会誌、「有隣」396号(有隣堂)、 「住宅屋三十年」畔柳安雄、ほか)

原富太郎氏

1929年4月24日に開催された、震災後5年を経ての復興祝賀会のようす(横浜市史資料室蔵)。前列左から二人目が富太郎氏。普段は飲み歩くことのない富太郎氏だが、震災後は市民を元気づけるために積極的に街に繰り出していたという。

原良三郎氏(左)有隣396号より(昭子氏所蔵)

2014年2月7日金曜日

若葉町二丁目共同ビル

接収当時、一帯が飛行場として使用されていた若葉町。いまはその細長い町の形状だけがわずかに接収当時のようすを伝えています。

90年代以降、若葉町は外国出身の人たちが多く移り住むまちに変わりました。日本一の「タイ・ストリート」と呼ばれたこともあるほど、現在は国際色豊かな裏繁華街へと変貌しています。3丁目には2スクリーンのミニシアター「ジャック&ベティ」があります。前身は接収解除後の昭和27年クリスマスにオープンした「横浜名画座」。一度は閉館したこの映画館を再開させたのは横浜生まれの若き経営者たちでした。ウェブサイトに「一日中、映画と若葉町に染まってほしい。」とあるように、街ぐるみの「よこはま若葉町多文化映画祭」なども開催されています。

若葉町にはもうひとつ、戦後の焼け跡から始まった伝説の居酒屋「根岸家」が2丁目にありました。和食、洋食、ありあらゆるとメニューがあり、24時間営業で年中無休。バンドが入り、米兵も出入りし、値段も庶民的で多くの市民に親しまれたそうです。しかしオリンピックの頃を境に次第に賑わいを失い、昭和55年閉店。直後に出火に見舞われ焼失しました。

若葉町2丁目共同ビルは、この根岸家の向かいに立地していました。3名の建築主と神奈川県住宅公社との併存型の共同ビル。県公社事業としては第一号の原ビルと同年度の最初期のものです。3階・4階に住戸が積まれ、廊下側ではなく居室側が道路に面して並べられているため、1・2階の店舗部分と一体感のあるファサードをつくりだしています。裏には木造二階家も増築されているようです。

ビル下層階の店舗群、一体感のあるファサード、加えて住居の集積と裏の増築などによって、アジア的な雰囲気がさらに強化されているようにも見えます。根岸家が向かいにあったころはどのような賑わいの通りだったのでしょうか。

これまでも、そしてこれからも、横浜のサブカルチャーの発信源として、人と店の入れ替わりをしなやかに受け入れながら庶民の歴史と文化を生み出す空間であってほしいと思います。
 (参考:融資建築のアルバム、建築助成公社20年史、「聞き書き 横濱物語」(聞き書き/小田豊二、シネマジャック&ベティ公式ウェブサイト)

竣工当時の若葉町2丁目共同ビル。1・2階は店舗、3・4階は住居として計画されているが、2階と3・4階部分の外観上の違いはない。写真左右端にそれぞれ上階へのアプローチが設けられている。

NEGISHIYAの看板が見える当時の根岸家の写真。ROBERT HUFFSTUTTER氏のflickerサイトによると日本的な風景として屋根上のようす(roofs)に目を奪われたとのこと。1961年撮影。

現在の若葉町2丁目共同ビル。夜は飲食店が開き、裏繁華街の様相をみせる。日中は住民の生活感がただよう静かなたたずまい。建物裏側には木造2階家が増築されている。写真左側の道向かいにかつて根岸家が建っていた。どちらかというと裏通りの宿命か、近年、周辺には時間貸し駐車場などが広がりつつある。
 

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2014年1月21日火曜日

小此木第一・第二ビル

京急線高架下日ノ出スタジオにほど近い末吉町に建つ小此木第一・第二ビル。

昭和32年度融資を受けて、いずれも神奈川県住宅公社との併存ビルとして建てられました。
施工は同じく末吉町で大正5年に創業した渡辺組。当時の建築主は「金港倉庫株式会社」とあり、これは現在のビル所有者である株式会社小此木の出発点となった会社でした。

小此木家は横浜開港以来の歴史にも関係の深い家柄です。かながわ検定でも出題されたことがあり、ご存じの方も多いかも。神奈川県民で親・子・孫の3代続けて国会議員を務めた4家系のひとつです。しかし意外にも横浜での小此木家の歴史は、明治中頃になって小此木彦四郎氏が埼玉から横浜に出てきて竹屋をはじめたことにはじまります。

その後、竹屋から材木商へ、そして貯木場の管理運営から倉庫業へ。業務内容の変遷はそのまま港の歴史とも重なります。

現在の株式会社小此木社長・小此木歌蔵氏(歌治氏の孫)は神奈川倉庫協会、大黒ふ頭連絡協議会の各会長を務め、改革に取り組む一方、横浜開港150周年の際には横浜港振興協会や横浜商工会議所などで構成する「横浜写真アーカイブ実行委員会」の委員長を務め、横浜の先人達が残してきた足跡を後世に引き継いでいく活動にも取り組んでいます。

かつて関東大震災の復興で木材需要が急増した際、東京に近い鶴見沖に公設貯木場を作るべしとの声が東京の外材業者から出されます。これに大蔵省、そして横浜税関まで同調します。横浜は官民挙げて奮起。建設運動の結果、新山下に貯木場を建設することが決まり、当時の有吉忠一市長は「どうせつくるなら大貯木場を作れ」と号令をかけたそうです。

横浜の都市づくりは、権力や資金力を背景とした一気呵成というよりは、官民が共に汗を流しながらひとつずつ進めてきた都市づくり。戦災復興の小此木第一ビル・第二ビルにもその面影をみることができるのではないでしょうか。

(参考:横浜市建築助成公社20年史、融資建築のアルバム、みんなでつくる横浜写真アルバムウェブサイト、明るい横浜をつくる会三十年のあゆみ、ほか)

竣工当時の小此木第一ビル。1階には「(株)金港倉庫」の文字がみえる。2階から上は18戸の県公社住宅が計画されたが現在は払い下げられている。

現在の小此木第一ビル。敷地形状の制約から、表通り(写真左側)に面する部分の住戸バルコニーは建物内部に組み込まれているが全戸にバルコニーが用意されている。

竣工当時の小此木第二ビル。2階から上は33戸の県公社住宅が計画されたが、これも現在は払い下げられている。第一ビルと向かい合う部分(写真左側)は片廊下、表通りに面する部分(写真右側)は住戸バルコニーが、それぞれ面するように計画されている。このためその中間部分のコンクリート壁面がデザイン上のアクセント。

現在の小此木第二ビル。表通りに住戸バルコニーを持ってくるデザインは馬車道商栄ビルなどいくつか確認できる。居住者の生活感が通りの景観ともなっている。

末吉町に隣接する若葉町一体は、接収当時、米軍の飛行場として広域に使用されていた。写真奥に京急線高架がみえる。(写真:児林嘉五郎氏、写真集「昭和の横浜」(横浜市史資料室)より)


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