2013年9月13日金曜日

公社住宅に託した夢

吉田町第一名店ビルの一室を、オーナーのご厚意で見せていただきました。

この20年ほど、誰にも貸さずに静かに閉じられていた40㎡程度の小さな住宅です。
建設当時の間取りや設備がほぼそのまま残され、生活様式や設計の苦労がそこかしこに確認できます。
かつてここに暮らしていた方も、きっと大切に住んでいたのだと思います。

吉田町第一名店ビルが建てられた当時、住宅金融公庫から1戸あたり13坪を限度として融資が用意されていました。しかしこの13坪は廊下やバルコニーも含む面積として設定されていたため、片廊下型の集合住宅は1戸あたりの共用部分の占める面積がどうしても増えて不利となり、家族向け住戸を収めるのはほぼ不可能でした。

当時、工務部長(設計技術者集団のトップ)を務めていた石橋逢吉は、次のように述べています。

「十三坪の枠では設計不可能に近く、その為には一室住宅でも造らねばなるまい。(中略)C型は間口が足りない場合使うが、直接日照のない居室ができるが一応各室の独立性は保っている。」(雑誌住宅1957年6月)

C型とは、県公社が考案していた3つの型式プランのなかのひとつ。最も小さなもの(訂正2015.8.27)。吉田町第一名店ビルではこのC型が主に適用されました。公庫の融資の枠に納まらない分は直接家賃に跳ね返りますが、13坪に収まる1室プランの極小住宅を無理矢理つくるのではなく、戸当たり13坪を超えても独立2室プランを固辞したわけです。しかし当然、庶民が払うことのできる家賃の限界もあります。

「住戸間のブロック間仕切りをブチ抜くことによって広さを確保する可能性を留保して置くことだけが我々のはかなきレジスタンス」(前掲)

現代に生きる私たちがこれから描く夢と、技術者たちが試行錯誤の末にのこした仕掛けがいつか重なる日が来るのかもしれません。

奥の居室につながる廊下。真ん中の居室との間には障子戸が設けられている。2室は独立性を保ちながら、この廊下でゆるやかに一体となる。この廊下は、原型 となった公社C型プランでは食堂とされているが、C型よりもさらに間口が狭かったため食堂スペースがとれなかったのだろう。かわりに厨房まわりにスペース がとられ「食事室兼調理室」とされた。
 
今ではほとんど目にすることのできなくなった人研ぎ(人造石研出し)の流し台。ステンレス製の流し台は昭和33年から公団で採用され普及した。隣の浴室にも人研ぎの流しが残る。


バルコニー側の網入りガラスの掃き出し窓。この建物が防火帯建築であることを静かに主張している。

 
住居専用部分の広さに応じて、10坪から14坪の間でA型・B型・C型の3型式が用意された。すべての型式で独立2室の確保と、食事室(独立または調理室兼用)が計画された。(出典前掲)