原富太郎氏は慶応4年(1868年)生まれ。1892年に横浜関内の豪商・原善三郎の孫・屋寿(やす)と結婚し原家に入りました。原家は代々生糸の輸出貿易に関わってきた商家であり、富太郎は人望厚く商才に長ける実業家としてすぐに頭角を現していきます。京都や鎌倉から移築した古建築のコレクションである三渓園は市民向けに無料開園されるなど文化事業、慈善事業にも早くから熱心な人物でした。
1923年、富太郎が54歳のとき関東一帯を大震災が襲います。横浜は市街地のほとんどを焼失(被災率95%超)。富太郎は震災を機に一切のコレクション活動を辞め、横浜市復興会会長を務めながら昭和14年に70歳で亡くなるまで、横浜の復興、とくに生糸産業の復興に私財を投じ心血を注いでいきます。
このころの横浜は大都市東京に比べれば人口規模で1/5(東京市が当時約220万人であったのに対して横浜市は42万人)に満たず、都市の歴史はわずか60年あまり。帝都復興事業でも東京と比べて横浜の地位はきわめて低い扱いとなりました。
「・・国家の援助にまたなくてはならないのは当然でありますが、しかしこれとても、われわれは先ず自ら背水の陣を布いて、身を捨ててかからなければ、他からの同情も期待できるものではありません。われわれは横浜という焼け残りの孤城に踏みとどまり、ここに籠城して必死の戦をたたかい、若し事ならなかったならば、ともに枕をならべて討死する。その覚悟で以って臨まなくてはならぬと信ずるのであります。・・」(第一回横浜市復興会での原富太郎スピーチより)
原良三郎氏は明治29年(1896年)に富太郎の次男として生まれます。関東大震災当時は米国コロンビア大学に留学中。その後帰国し、兄善一郎の急逝を受けて富太郎の事業を引き継ぎます。そして迎えた終戦。横浜は5月29日の大空襲によって市街地のほとんどを焼失していました。
戦後、良三郎氏は戦災被害を受けた三渓園を私鉄の買収提案を蹴って横浜市に寄付。富太郎の残したコレクションの出版(三渓画集)に取りかかります。ようやく横浜が接収解除されはじめた昭和28年、今度は防火帯建築による市街地復興を模索していた神奈川県住宅公社から良三郎に白羽の矢がたちます。焼け野原となった関内にビルを建てても誰も来ないと敬遠され続けた事業計画に、良三郎氏は病床から応えます。
「万一これが不成功に了っても横浜復興の捨て石になれば本懐」(「住宅屋三十年」畔柳安雄)
震災復興の中心として奔走した父・富太郎氏に、戦災復興の矢面に立った自分を重ねていたと思うのは考えすぎでしょうか。父に比べれば決して目立った活動をしていたわけではありませんが、県公社による防火帯建築第一号となった原ビル以降、徐々に共同ビルの申し込みが増えていったことを踏まえると、良三郎氏の遺した足跡、引き継いだ精神もまた、横浜にとってかけがえのない財産であろうと思います。
(参考:横浜市復興会誌、「有隣」396号(有隣堂)、 「住宅屋三十年」畔柳安雄、ほか)
原富太郎氏 |
1929年4月24日に開催された、震災後5年を経ての復興祝賀会のようす(横浜市史資料室蔵)。前列左から二人目が富太郎氏。普段は飲み歩くことのない富太郎氏だが、震災後は市民を元気づけるために積極的に街に繰り出していたという。 |
原良三郎氏(左)有隣396号より(昭子氏所蔵) |