2020年5月5日火曜日

「横浜防火帯建築を読み解く」出版について

ブログをご覧くださりありがとうございます。このたび横浜の防火帯建築をこよなく愛する有志メンバーとともに、「横浜防火帯建築を読み解く」と題する書籍を花伝社より出版する運びとなりました。建築の楽しみ方は人それぞれ。ぜひ手に取っていただきご批判いただければと思います(クリックするとamazonサイトにとびます)。

2016年6月7日火曜日

「防火建築帯」と「防火帯建築」


この2つの用語、一見しただけでは違いが分からないため、いちど整理してみたいと思います。

「防火建築帯」

「防火建築帯」は昭和27年5月31日に静定施行された「耐火建築促進法」に出てくる言葉です。この法律は同年4月17日に発生した鳥取大火を受けて延焼防止帯となる路線型の防火帯を形成することを目的として生まれました。鳥取大火以前からも都市不燃化運動を受けた法律制定の動きはみられており、防火帯をできるだけ細かく造成していくことによって最終的には都市全体を不燃化することが目指されていました。

防火建築帯の指定は建設大臣が行い、「地上階数三以上のもの若しくは高さ十一メートル以上のもの又は基礎及び主要構造部を地上第三階以上の部分の増築を予定した構造とした二階建のものであるときは、当該耐火建築物の地上階数四以下及び地下第一階以上の部分(第六条)」について補助金交付を定めています。防火建築帯の多くが4階建てなのはこのためです。なお、建築基準法、都市計画法上の防火地域(路線式の場合)指定は奥行き11m(市街地建築物法時代の防火地区指定における奥行き六間を継承)であり、促進法との整合について、当時の建設省通達(第651号)により示されています。

昭和32年11月発行「都市不燃化運動史」によると、防火建築帯としての効果と、指定区域内の経済力を考慮する等の理由から、なるべく都市の中心部の繁華な商店街を選定することが推奨されています。また、人口10万から20万程度の都市では人口1万につき道路両側にあるものとして延長合計約120m(片側のみなら240m)が標準的な長さとして示されています。東京、横浜、大阪、名古屋などの大都市を除くと、ほとんどの都市においては防火建築帯の指定は目抜き通りが指定されることが多かったと言えます。

地方都市における防火建築帯の例(鳥取市若桜街道(左上)、山形市すずらん通り(右上)、魚津市中央通り(左下)、宇都宮市(右下))。当時は建築家が商店街空間のデザインに参加していた。山形市(駅前)と魚津市の防火建築帯には不燃建築研究所も参加。この他、沼津市の防火建築帯(建設工学研究会(池辺陽ら))によるものなどが有名。

「防火帯建築」

横浜では耐火建築促進法の施行と接収解除の時期が重なったため、都市の復興を加速するために耐火建築促進法を積極的に活用することが選択されました。昭和32年ごろには防火建築帯指定総延長が35キロを超え、総延長では東京(約122キロ)、大阪(約119キロ)に次ぐ長さ(名古屋は約26キロ)ですが、その指定密度の高さは他都市に例を見ません。

大都市における防火建築帯の指定区域比較図(セイムスケール)。横浜がいかに高密度に指定されているかがわかる。

横浜市の初代建築課長であった長野尚友氏は、昭和27年10月、建設省から来た内藤亮一氏を二代目の建築局長に迎え、内藤とともに横浜の戦後復興を強力に推進しました。ある程度戦災復興事業が一段落しつつあった他都市と異なり、接収解除の時期と重なった横浜は、この防火建築帯造成事業が復興事業そのものでした。内藤によって防火地域が大幅に拡充され、幅員8m以上の道路沿いに防火建築帯を指定し、これで囲まれた街区がほぼ100m四方となるように考えられました。

一方で、関内牧場と揶揄された荒れ地に、本当に計画通りに造成されていくのか見通しは立っていませんでした。接収解除も段階的に進められたことからまとまった計画も建てにくく、不燃建築とはいえ小規模なビルが個別に建ち並んでしまう恐れもありました。そこで共同建築を強く推奨するとともに神奈川県住宅公社の公的賃貸住宅 と併存する場合には横浜市建築助成公社からの融資金を引き上げ自己負担金ゼロで建築を可能とするなど特別な仕組みが設けられました。

このような経緯から、横浜ではまとまった防火建築帯の造成が困難であり、その代わり個々の復興建築を別途「防火帯建築」または「ハマの防火帯建築」と呼び分けるようになっていったと思われます。たとえば昭和27年の神奈川新聞紙上では、すでに防火帯建築という呼称(防火帯内建築の意味)が使われており、神奈川県住宅公社では、さらに共同建築であることを強調するため「防火帯共同ビル」という呼称を用いていた時期もありました。

他都市では、たとえば沼津では「アーケード」、蒲郡では「サクラビル」、宇都宮では「バンバビル」など、「防火建築帯」とは別に固有の名前(呼称)が使われている都市があります。横浜の「防火帯建築」も、これと似たような文脈で使われてきた横浜固有の呼称と言えるでしょう。それにしてもややこしいですが。

神奈川新聞1952年12月7日

神奈川新聞1952年12月20日

神奈川新聞1953年1月10日(記事中の不鮮明箇所を一部編集)

横浜の防火帯建築群。間口方向80m程度の長さを持つものもあるが、20~30m程度のものや数m程度の小規模なものも多い。

参考文献: 横浜市建築助成公社20年誌、都市不燃化運動史、水煙会報、ほか

2014年11月27日木曜日

富士見町共同ビル

長者町3丁目交差点から内陸側に3ブロック。T字路の角に富士見町共同ビルは建っています。横浜市建築助成公社から融資を受けて昭和33年度事業として建てられた第一タクシー(株)(当時)と神奈川県住宅公社による共同再建(併存住宅)ビル。施工は長者町通りでも共同ビルを建設中だった関工務店が請け負っていました。

永楽町・真金町は、かつての遊郭街の名残をとどめる町。遊郭が永楽町・真金町に移ってきたのは明治15年ごろまでさかのぼります。山田町、富士見町の3、4丁目をふくむ一帯が遊郭移転地に指定され、このときに町名が「永楽町」「真金町」へ変更されました。妓楼が建ち並び、の並木が演出する異世界へ。伊勢佐木町から近かったこともあり人が流れ込み急速に盛り場へ変貌を遂げていました。

一方で、道をはさんだ山田町、富士見町側は職人町として、輸出の下請け業者が集まっていた労働者の町でした。大正9年には富士見町に職業紹介所が設置され、労働力供給の拠点ともなっていました。

戦災で大きな被害を受けたのち、山田町、富士見町側だけが占領軍に接収されました。つまり、山田町・富士見町と、永楽町・真金町との町境の通りは、占領軍による接収地と非接収地の境界線となりました。もともとひとつだった町は、遊郭移転を機に道を挟んでふたつに別れ、戦後もそれぞれ異なる運命を辿りはじめたわけです。

そして接収解除。山田町、富士見町には神奈川県住宅公社や日本住宅公団によって復興住宅団地が防火帯建築として次々に建てられました。現在、公社住宅と公団住宅は建替えによって高層化され、計672戸の都心賃貸(URは一部分譲)、約2千人が暮らす住宅地に成長しました。

富士見町共同ビルは、終戦後10年以上経って、この街がようやく戦後の第一歩を踏み出した姿を残しています。

(参考:横浜市建築助成公社20年誌、中区史、横浜関内地区の戦後復興と市街地共同ビル(神奈川県住宅供給公社)ほか)

横浜市防火建築帯造成状況図(昭和33年)から。富士見町(永楽町側)のL字型の建物が富士見町共同ビル。住宅公団の山田町アパートは、防火帯とは関係なく南面並行配置が徹底されている。中央下(千歳公園東隣)の5棟の建物は神奈川県住宅公社の山田町第一・第二共同ビル。昭和36年に公団山田町アパートの隣地に県公社が山田町第三共同ビルを建てることになるがまだ載っていない。濃い赤は竣工済み、ピンクは計画決定、オレンジが防火帯の造成構想。造成途上のようすがよくわかる。

富士見町共同ビルの竣工当時の写真(県公社資料より)。施工は関工務店。このころになると、下層階の店舗、隅切り部の意匠、通りにバルコニーを向けて街区内部に片廊下を置く配置、街区内部への引き込み動線を兼ねた両側外階段など、横浜における防火帯の建築言語が整ってくる。

富士見町共同ビルの現在のようす。竣工当時の外観をよく残している。下層階には、不動産、バイクショップ、中古車販売、飲食店などが入る。

街区内部への引き込み動線を兼ねた外階段。側壁は防火帯の延長を予測しているのか両側ともに窓もなくのっぺりとしたもの。街区内部は時間貸し駐車場となっており、空地をつくりだす防火帯建築のねらいを体験できる。


2014年10月31日金曜日

伊勢佐木町センタービル

伊勢佐木町通りと長者町通りが交差するところ、関内からみて長者町通りを渡った伊勢佐木町3丁目側にこのビルは建っています。

向かいには日本初の洋画専門館として明治44年に創業した旧横浜オデオン座(現ニューオデオンビル)が建ち、このあたりは明治後半には既に日本屈指の西洋文化の発信地となっていた場所です。
旧オデオン座はその後、関東大震災からの再建を果たし、しかし、敗戦後占領軍によって昭和30年までのちょうど10年間「オクタゴンシアター」として接収されつづけます。

オデオン座がようやく接収解除されようとするころ、昭和29年度事業として、横浜市建築助成公社から助成をうけて六者共同による共同ビルが建てられました。このころ伊勢佐木町通りにはすでに数棟の共同ビルが建ち始めていましたが、六者によるものはこれが初めてであり、かつてない規模のプロジェクトとなりました。

横浜は開港後、明治期までは弁天通りと馬車道通りの交差するあたりが最も地価が高かったと言われています。大正期にはこれが伊勢佐木町と吉田町の交差点に移り、昭和に入り市電網が充実してくるころには伊勢佐木町と長者町の交差点あたりに移ります。

戦後復興の時代、かつてない規模のプロジェクトを実現に至らしめたのは、このあたりにまだ横浜の中心地、伊勢佐木町の中心地としての熱気が残っていたからなのかもしれません。ビルの名前はそのことを主張しているようにも見えます。

港、関内から伊勢佐木、吉田町、そして長者町へ。横浜の中心地の内陸への移動は都市の発展を象徴していました。しかし、その後の横浜駅周辺の急速な発展によって、昭和40年頃にはその地位を横浜駅に譲ります。

映画館、市電がまちから姿を消し、長者町通りは車の道、伊勢佐木町通りは歩行者の道へと姿を変えました。60年にわたって建ち続けているこのビルは、確かにかつてここが中心地であったことをいまでも教えてくれます。

(参考:横浜市建築助成公社20年誌、融資建築のアルバム、横浜市電が走った街 今昔、有隣No.434ほか)

昭和29年度事業、六者共同による共同ビル。3層と比較的低く構えた外観と、長者町通り・伊勢佐木町通りのそれぞれに面したガラスのカーテンウォールが水平的な広がりを強調している。隅切り部にもガラス面があるが垂直に設けられたルーバーの装飾がアクセント。(「融資建築のアルバム」より引用)

現在もほぼ竣工当時の外観を保っているが、看板や窓面パネル、街路樹などで隠れている部分も多い。建物としては一体であるが、分割所有のため個別に修繕が行われているのだろう。

伊勢佐木町センタービルの看板から、かつてここが中心地であったことを想像することができる。

昭和31年5月8日の写真(「横浜市電が走った街 今昔」より引用)。長者町通りを走る市電の向こうに、接収解除されたばかりの旧オデオン座と竣工したばかりの伊勢佐木町センタービルがみえる。手前には横浜ピカデリー劇場の建物。


2014年9月25日木曜日

幻の横浜中央ビル

たまたま古い神奈川新聞を見ていたら、興味深い記事を見つけました。

「馬車道に大ビル-工費一億円で四階建て-接収地解放後の計画」
(昭和25年2月11日、神奈川新聞1面)

「伊勢佐木町飛行場跡解放の朗報に引き続き、横浜市のメーンストリート中区尾上町馬車道の一部が米軍の好意によって解放されることになり、期待される市街地解放のさきがけとして明るい希望を市民に抱かせている。」との書き出しで始まり、

「伊勢佐木町解放に際してのイザコザもあったので、復興建築の衛にあたる尾上町復興協栄会では・・(中略)・・地下一階、地上四階の鉄筋コンクリート・ビル(延二千坪)を建設することになり”横浜中央ビル”の名で総工費一億三千万円を計上・・(中略)・・地下、一階は商店街とし、二、三、四階は銀行、保険会社、一般会社の事務所などにあて・・(後略)」とあります。

地下と一階を商店街にしようとしていたこと、 そして何より「横浜中央ビル」(関内中央ビルではなく)という名前を与えようとしていたことが戦後復興の時代を物語っている気がします。

さて、現実には横浜中央ビルは建設されることはありませんでした。いま現地には「昭和28年度表彰建築物」を掲げた地上6階建ての旧大和銀行ビルが建っています。

なぜ半分の敷地となったのか、なぜ商店街構想はなくなったのか、昭和25年から28年の間にいったい何が起きたのか、興味は尽きません。

少し経った昭和38年に、関内大通りをはさんだ尾上町3丁目に横浜第一有楽ビルが建設されました。このビルには一階と地階に商店街が設けられています。当時の横浜市電(路面電車)の停車場周辺の賑わいの声が聞こえてきそうです。

馬車道側から横浜中央ビル(予想図)を望む。商店街と銀行やオフィスの複合建築を構想していた。もし実際に完成していたら、馬車道通り、関内大通り、尾上町通りの3つの通りに面する建物となっていた。(出典:神奈川新聞、昭和25年2月11日)

関内大通り側から旧大和銀行ビルを望む。いまは地下鉄の入り口が以前駐車場だった場所に設けられている。横浜中央ビル構想は関内大通りから馬車道通りまでの敷地をひとまとめにした大がかりな共同建築の構想だったが、何らかの理由で共同化を断念したのだろうか。

昭和28年度表彰建築物のプレートが、交差点側に向けて建物入り口脇に掲げられている。建築主は大和銀行。

関内大通りを挟んで向かいに建つ横浜第一有楽ビル(昭和38年)には、地階に商店街(地下店舗)が設けられている。通り抜けも可能。

2014年8月6日水曜日

旧三井物産横浜支店倉庫

8月5日に開催された旧三井物産株式会社横浜支店倉庫の保存を考える緊急シンポジウム」(公益社団法人 横浜歴史資産調査会(ヨコハマヘリテイジ)主催)に参加しました。

詳細は日本建築学会関東支部による保存活用要望書(リンク先pdfデータ)にまとめられており、今後シンポジウムを受けてヨコハマヘリテイジからも緊急アピールがまとめられることになっています。

関東大震災前から残る建築物として、それだけでも貴重な建築ですが、さらに以下の点で横浜にとって欠かせない建築であることがわかりました。昨年三井物産から取得した所有者は今月中には取り壊す予定とのこと。

・倉庫も事務所ビルも日本のRC造の先駆者、遠藤於菟により設計された建築であること。
・倉庫はレンガ、木、RCの混構造であり、実験的かつ全RC造(事務所ビル)への移行期の建築であること。
・事務所ビルの方は日本最初の全RC造によるオフィスビルであること。
・関東大震災以前は個々の商社が自前の倉庫に生糸を保管し取引していたが、このことがわかる唯一の建築であること。
・関東大震災から3週間足らずの間に貿易商たちは生糸取引を再開した(横浜復興誌)が、被災を免れた倉庫内の生糸が再開の足がかりになった可能性があること。

9月1日は関東大震災が発生して91年目を迎える日です。
大震災も戦災(空襲)も耐え抜いて復興を支えてきた建築、生糸貿易の遺産が、9月1日を前に所有者の手によって取り壊されるかもしれないというのは横浜にとって悲劇です。

先人たちの労苦と横浜の発展の歴史に、一人一人の市民が関心を寄せることが何より重要であることを痛感しました。そして、今回の件が、旧三井物産倉庫を残すか残さないかだけに終始してしまうと、将来また同じ問題を引き起こしかねない危機感も感じました。

接収解除後の融資第一号防火帯建築「萬国貿易ビル」も、今年に入り、人知れず姿を消していました。

旧三井物産横浜支店倉庫(左)と事務所ビル(右)。関東大震災後に生糸検査所が設けられる前は、個々の商社が自前で保管倉庫を持っていた。



より大きな地図で 旧三井物産横浜支店倉庫 を表示

2014年7月31日木曜日

第2期連載をはじめます。

しばらく休止状態でしたが、横浜の防火帯建築の連載を再開します。第2期として、また半年ほどかけて、30棟ほどの建築や建築にまつわる話題をご紹介できればと思っています。少しタイトルを変えました。

2014年2月26日水曜日

原富太郎と原良三郎

今回は建築ではなく、横浜の復興を語る上で欠かせない2人の民間人の紹介です。

原富太郎氏は慶応4年(1868年)生まれ。1892年に横浜関内の豪商・原善三郎の孫・屋寿(やす)と結婚し原家に入りました。原家は代々生糸の輸出貿易に関わってきた商家であり、富太郎は人望厚く商才に長ける実業家としてすぐに頭角を現していきます。京都や鎌倉から移築した古建築のコレクションである三渓園は市民向けに無料開園されるなど文化事業、慈善事業にも早くから熱心な人物でした。

1923年、富太郎が54歳のとき関東一帯を大震災が襲います。横浜は市街地のほとんどを焼失(被災率95%超)。富太郎は震災を機に一切のコレクション活動を辞め、横浜市復興会会長を務めながら昭和14年に70歳で亡くなるまで、横浜の復興、とくに生糸産業の復興に私財を投じ心血を注いでいきます。

このころの横浜は大都市東京に比べれば人口規模で1/5(東京市が当時約220万人であったのに対して横浜市は42万人)に満たず、都市の歴史はわずか60年あまり。帝都復興事業でも東京と比べて横浜の地位はきわめて低い扱いとなりました

「・・国家の援助にまたなくてはならないのは当然でありますが、しかしこれとても、われわれは先ず自ら背水の陣を布いて、身を捨ててかからなければ、他からの同情も期待できるものではありません。われわれは横浜という焼け残りの孤城に踏みとどまり、ここに籠城して必死の戦をたたかい、若し事ならなかったならば、ともに枕をならべて討死する。その覚悟で以って臨まなくてはならぬと信ずるのであります。・・」(第一回横浜市復興会での原富太郎スピーチより)

原良三郎氏は明治29年(1896年)に富太郎の次男として生まれます。関東大震災当時は米国コロンビア大学に留学中。その後帰国し、兄善一郎の急逝を受けて富太郎の事業を引き継ぎます。そして迎えた終戦。横浜は5月29日の大空襲によって市街地のほとんどを焼失していました。

戦後、良三郎氏は戦災被害を受けた三渓園を私鉄の買収提案を蹴って横浜市に寄付。富太郎の残したコレクションの出版(三渓画集)に取りかかります。ようやく横浜が接収解除されはじめた昭和28年、今度は防火帯建築による市街地復興を模索していた神奈川県住宅公社から良三郎に白羽の矢がたちます。焼け野原となった関内にビルを建てても誰も来ないと敬遠され続けた事業計画に、良三郎氏は病床から応えます。

「万一これが不成功に了っても横浜復興の捨て石になれば本懐」(「住宅屋三十年」畔柳安雄)


震災復興の中心として奔走した父・富太郎氏に、戦災復興の矢面に立った自分を重ねていたと思うのは考えすぎでしょうか。父に比べれば決して目立った活動をしていたわけではありませんが、県公社による防火帯建築第一号となった原ビル以降、徐々に共同ビルの申し込みが増えていったことを踏まえると、良三郎氏の遺した足跡、引き継いだ精神もまた、横浜にとってかけがえのない財産であろうと思います。
(参考:横浜市復興会誌、「有隣」396号(有隣堂)、 「住宅屋三十年」畔柳安雄、ほか)

原富太郎氏

1929年4月24日に開催された、震災後5年を経ての復興祝賀会のようす(横浜市史資料室蔵)。前列左から二人目が富太郎氏。普段は飲み歩くことのない富太郎氏だが、震災後は市民を元気づけるために積極的に街に繰り出していたという。

原良三郎氏(左)有隣396号より(昭子氏所蔵)

2014年2月7日金曜日

若葉町二丁目共同ビル

接収当時、一帯が飛行場として使用されていた若葉町。いまはその細長い町の形状だけがわずかに接収当時のようすを伝えています。

90年代以降、若葉町は外国出身の人たちが多く移り住むまちに変わりました。日本一の「タイ・ストリート」と呼ばれたこともあるほど、現在は国際色豊かな裏繁華街へと変貌しています。3丁目には2スクリーンのミニシアター「ジャック&ベティ」があります。前身は接収解除後の昭和27年クリスマスにオープンした「横浜名画座」。一度は閉館したこの映画館を再開させたのは横浜生まれの若き経営者たちでした。ウェブサイトに「一日中、映画と若葉町に染まってほしい。」とあるように、街ぐるみの「よこはま若葉町多文化映画祭」なども開催されています。

若葉町にはもうひとつ、戦後の焼け跡から始まった伝説の居酒屋「根岸家」が2丁目にありました。和食、洋食、ありあらゆるとメニューがあり、24時間営業で年中無休。バンドが入り、米兵も出入りし、値段も庶民的で多くの市民に親しまれたそうです。しかしオリンピックの頃を境に次第に賑わいを失い、昭和55年閉店。直後に出火に見舞われ焼失しました。

若葉町2丁目共同ビルは、この根岸家の向かいに立地していました。3名の建築主と神奈川県住宅公社との併存型の共同ビル。県公社事業としては第一号の原ビルと同年度の最初期のものです。3階・4階に住戸が積まれ、廊下側ではなく居室側が道路に面して並べられているため、1・2階の店舗部分と一体感のあるファサードをつくりだしています。裏には木造二階家も増築されているようです。

ビル下層階の店舗群、一体感のあるファサード、加えて住居の集積と裏の増築などによって、アジア的な雰囲気がさらに強化されているようにも見えます。根岸家が向かいにあったころはどのような賑わいの通りだったのでしょうか。

これまでも、そしてこれからも、横浜のサブカルチャーの発信源として、人と店の入れ替わりをしなやかに受け入れながら庶民の歴史と文化を生み出す空間であってほしいと思います。
 (参考:融資建築のアルバム、建築助成公社20年史、「聞き書き 横濱物語」(聞き書き/小田豊二、シネマジャック&ベティ公式ウェブサイト)

竣工当時の若葉町2丁目共同ビル。1・2階は店舗、3・4階は住居として計画されているが、2階と3・4階部分の外観上の違いはない。写真左右端にそれぞれ上階へのアプローチが設けられている。

NEGISHIYAの看板が見える当時の根岸家の写真。ROBERT HUFFSTUTTER氏のflickerサイトによると日本的な風景として屋根上のようす(roofs)に目を奪われたとのこと。1961年撮影。

現在の若葉町2丁目共同ビル。夜は飲食店が開き、裏繁華街の様相をみせる。日中は住民の生活感がただよう静かなたたずまい。建物裏側には木造2階家が増築されている。写真左側の道向かいにかつて根岸家が建っていた。どちらかというと裏通りの宿命か、近年、周辺には時間貸し駐車場などが広がりつつある。
 

より大きな地図で 防火帯建築(若葉町2丁目共同ビル) を表示

2014年1月21日火曜日

小此木第一・第二ビル

京急線高架下日ノ出スタジオにほど近い末吉町に建つ小此木第一・第二ビル。

昭和32年度融資を受けて、いずれも神奈川県住宅公社との併存ビルとして建てられました。
施工は同じく末吉町で大正5年に創業した渡辺組。当時の建築主は「金港倉庫株式会社」とあり、これは現在のビル所有者である株式会社小此木の出発点となった会社でした。

小此木家は横浜開港以来の歴史にも関係の深い家柄です。かながわ検定でも出題されたことがあり、ご存じの方も多いかも。神奈川県民で親・子・孫の3代続けて国会議員を務めた4家系のひとつです。しかし意外にも横浜での小此木家の歴史は、明治中頃になって小此木彦四郎氏が埼玉から横浜に出てきて竹屋をはじめたことにはじまります。

その後、竹屋から材木商へ、そして貯木場の管理運営から倉庫業へ。業務内容の変遷はそのまま港の歴史とも重なります。

現在の株式会社小此木社長・小此木歌蔵氏(歌治氏の孫)は神奈川倉庫協会、大黒ふ頭連絡協議会の各会長を務め、改革に取り組む一方、横浜開港150周年の際には横浜港振興協会や横浜商工会議所などで構成する「横浜写真アーカイブ実行委員会」の委員長を務め、横浜の先人達が残してきた足跡を後世に引き継いでいく活動にも取り組んでいます。

かつて関東大震災の復興で木材需要が急増した際、東京に近い鶴見沖に公設貯木場を作るべしとの声が東京の外材業者から出されます。これに大蔵省、そして横浜税関まで同調します。横浜は官民挙げて奮起。建設運動の結果、新山下に貯木場を建設することが決まり、当時の有吉忠一市長は「どうせつくるなら大貯木場を作れ」と号令をかけたそうです。

横浜の都市づくりは、権力や資金力を背景とした一気呵成というよりは、官民が共に汗を流しながらひとつずつ進めてきた都市づくり。戦災復興の小此木第一ビル・第二ビルにもその面影をみることができるのではないでしょうか。

(参考:横浜市建築助成公社20年史、融資建築のアルバム、みんなでつくる横浜写真アルバムウェブサイト、明るい横浜をつくる会三十年のあゆみ、ほか)

竣工当時の小此木第一ビル。1階には「(株)金港倉庫」の文字がみえる。2階から上は18戸の県公社住宅が計画されたが現在は払い下げられている。

現在の小此木第一ビル。敷地形状の制約から、表通り(写真左側)に面する部分の住戸バルコニーは建物内部に組み込まれているが全戸にバルコニーが用意されている。

竣工当時の小此木第二ビル。2階から上は33戸の県公社住宅が計画されたが、これも現在は払い下げられている。第一ビルと向かい合う部分(写真左側)は片廊下、表通りに面する部分(写真右側)は住戸バルコニーが、それぞれ面するように計画されている。このためその中間部分のコンクリート壁面がデザイン上のアクセント。

現在の小此木第二ビル。表通りに住戸バルコニーを持ってくるデザインは馬車道商栄ビルなどいくつか確認できる。居住者の生活感が通りの景観ともなっている。

末吉町に隣接する若葉町一体は、接収当時、米軍の飛行場として広域に使用されていた。写真奥に京急線高架がみえる。(写真:児林嘉五郎氏、写真集「昭和の横浜」(横浜市史資料室)より)


より大きな地図で 防火帯建築(小此木第一・第二ビル) を表示

2013年12月27日金曜日

太田一ビル

横浜公園にほど近い、太田町通り1丁目にたつ太田一ビル。

建築助成公社から昭和34年度融資を受けて、野中英雄・菱川泰祐の両名によって建てられた共同ビル。施工は「神奈川県土木」とあり、防火帯建築のなかでははじめての直営工事だったようです。特別の技術を要したか、模範工事の位置づけだったか。(詳細確認したところ、民間企業の「神奈川県土木建築株式会社」であり、直営工事ではありませんでした(2017.1.12訂正)。)

ここは昭和28年に設立された野中貿易株式会社の本店所在地になりました(現在は太田町4丁目に移転)。野中貿易の前身は1917(大正5)年市内(元町)創業の野中楽器店。貿易都市として発展しつつあった横浜の地で、世界中からすぐれた楽器を輸入する代理店として創業。現在は「輸入プロフェッショナルサクソフォンの市場占有率90%以上、輸入プロフェッショナルトランペットの60%」(会社概要による)のシェアを誇る国内有数の楽器輸入代理店へと成長しています。

太田町通りは、弁天通りから一本内陸側に入った通り。華やかな弁天通りに比べるともともとあまり目立たない通りでしたが、関内では弁天通り、常盤町に次いで高額納税者が多かった地区(大正5年統計)。会社や銀行が並ぶビジネス街でした。

しかし、戦後の接収によって通りの様相は一変します。太田町・相生町・住吉町・常盤町・尾上町の各1~3丁目は占領軍によってまとめてモータープールとして使用され、残存建物のほとんどが除却。通りも姿を消します。

いま、太田町通りを横浜公園側に進むと日本銀行横浜支店にたどり着きます。接収解除後に横浜市が区画整理と並行して民有地を取得し、日銀が市内に分散所有していた土地と等価交換の形で確保した約2000㎡の広大な敷地。復興を加速させるために支店立地は政財界の悲願。モータープールとして一帯を接収され、ゼロベースからの復興だったからこそできた事業ともいえます。

今年、野中貿易株式会社は株式会社として再スタートして60周年を迎えました。

戦災・接収を乗り越え継承されてきた歴史ももちろん大切ですが、戦後のゼロベースからの創造と未来への投資の意味を振り返ることも大切ではないでしょうか。

(参考:野中貿易株式会社会社概要、日本銀行横浜支店ウェブサイト、中区史、図説「横浜の歴史」、横浜市建築助成公社20年史ほか)


昭和22年ごろのようす。左上に横浜公園がみえる。写真に含まれる一帯(太田町・相生町・住吉町・常盤町・尾上町の1~3丁目エリア)は占領軍のモータープールとして接収された。(出典:写真集「昭和の横浜」横浜市史資料室)

米国国立公文書館蔵の「YOKOHAMA CITY MAP」。モータープールとして接収されたエリア(着色した部分)は、単一用途としては関内で最大エリアの接収区域であったことがわかる。

現在の太田一ビル。4階建てと3階建てが一体となった共同ビル。おそらく2名の共同建築主の土地所有区分と対応している。3階建ての方が当初の共同ビル(4階建ては後の増築部分)。壁面から少し深さをとって配されたガラスの水平窓、さらにその室内側に柱が隠されている。創和設計の作品。


より大きな地図で 防火帯建築(太田一ビル) を表示

2013年12月16日月曜日

尾上町共同ビル

尾上町通りは桜木町駅から大江橋をわたり、まっすぐ横浜市役所に通じる通り。市電が走っていた時代には横浜公園を回り込みながらそのまま本牧まで市電が通っていました。

現在の市役所は7代目にあたりますが、2代目、4代目、7代目の市役所はいずれも現在とほぼ同じ場所に建てられていました。それ以外の場所に建てられていた時期は、開港後の臨時市役所として(初代)、関東大震災や第二次大戦による焼失にともなう一時的市役所だったり(3代目、5代目)と、いずれも暫定的な立地であり、尾上町通り沿いの現在の位置がほぼ定位置だったことがわかります。

建築基準法の前身である市街地建築物法が1919年に施行されてすぐに、この通り沿いは防火地区に指定されました。さらに関東大震災後には土地区画整理によって道路が拡幅、防火地区は戦災復興時の防火建築帯指定にもひきつがれました。

こうしたなかで、尾上町共同ビルは接収解除後の昭和31年に竣工した県公社との併存ビル。施工は大正13年に桜木町で創業した紅梅組。店舗は1階のみで2階から4階に12戸の公社住宅が計画されています(現在は払い下げられています)。1階で営業をつづける中華料理店は竣工後まもなく入居、創業60年近い老舗飲食店です。

おなじ尾上町3丁目のブロックには戦前まで市内有数のダンスホール「カルトンダンスホール」が立地していました。横浜は西洋からダンスが輸入され庶民の暮らしに最初に根付いた場所。少しずつ戦時色をおびていくなかで昭和15年10月末に廃止されますが、昭和21年に営業許可が再開。横浜中心部の市電停留所の前でダンス教室がないところはなかったといわれるほどに復興していきます。

防火地区としても早くから最重要の位置づけとされた尾上町通り。一方で警察の許可がないと開けなかったダンスホールが、市役所の目と鼻の先で戦前から立地し根付いていた通りでもありました。

官と民の近さ、垣根の低さも横浜のアイデンティティのひとつではないでしょうか。
(参考:建築助成公社20年史、写真集「昭和の横浜」(横浜市史資料室)、有隣第391号、株式会社紅梅組会社概要ほか)


竣工当時の尾上町共同ビル。1階にはまだ空き店舗もみられる。西側2スパンは出店準備中だろうか。片廊下型で階段室はひとつ。商栄ビル、長者ビルのように住宅のバルコニー側が道路に面するのではなく、玄関側が通りに面している。このため少し閉じた印象。

戦前まで尾上町3丁目ブロックに立地していたカルトンダンスホール。今和次郎らによって考現学採集の対象ともなった。このカルトンホールは市内の他のダンスホールに比べてかなり賑わっていたとの記述あり(出典:考現学採集(モデルノロジオ)今和次郎ほか)。

現在の市役所庁舎が建築された直後に屋上から撮られた写真。眼下に市電の通る尾上町通り、通りの向かいに「フレンドダンス教室」の看板(写真右下)がみえる。こうした娯楽の復興も市民にとっての戦後復興の象徴だった。(昭和34年撮影、横浜市史資料室)

現在の尾上町共同ビル。歩道の銀杏並木が大きく成長した。西側2スパンの中華料理店は創業60年近い。接収解除後の横浜関内の戦後復興をずっとみてきた。東側には「関内イセビル」が隣接している。


より大きな地図で 防火帯建築(尾上町共同ビル) を表示

2013年12月3日火曜日

都橋商店街ビル

2020年に2回目の東京オリンピック開催が決まりました。

1回目の開催は1964年のこと。「もはや戦後ではない」(1954年)と謳われた経済白書から10年。東京オリンピックは日本経済の回復と国際社会への復帰を強く印象づけるものとなりました。

横浜は東京にほど近く、バレーボールの予選会場として横浜文化体育館が選ばれました。しかし横浜は他都市よりも10年は復興が遅れていました。接収解除の遅れから、横浜の「戦後」はまだ終わっていなかったのです。

都橋商店街ビルは、1964年、野毛本通りの美観向上と道路整備を図ることを目的に、露天商たちを収容するために急遽つくられた商店街ビルでした。周辺に適当な移転地はなく、公有地の大岡川河川敷(護岸敷と河川上空)を占有する形で横浜市が建築(横浜市建築助成公社への委託事業)し、商業者の組合(横浜野毛商業協同組合)に賃貸する異例の方法がとられました。

それまで野毛本通りや野毛銀座通りの路上、桜木町駅の周辺には、接収によって関内を追われた露天商たちが闇市を形成していました。カストリ横丁、クジラ横丁などとも呼ばれ、取締りと不法占拠の繰り返しのなかで、彼らはここから再起をはかっていたのです。

露天商ではないものの、野毛の洋食屋「洋食キムラ」さん(初代:貴邑富士太郎)も関内を追われて野毛で再起をはかったひとり。接収のため関内・常盤町から知人のつてを頼り花咲町へ。初代が亡くなった後、二代目の悟氏が平成6年に野毛本通りに新店舗を出します。

関内を追われ、闇市から再起をはかり合法的な居場所をかちとった露天商たち。
関内を追われ、転々としながら野毛で根をおろし店を継いでいくことを決心した洋食店の父子。

戦災と長期接収からの復興は、関内に帰還をはたした人たちだけの物語ではなかったのです。

(参考:横浜市建築助成公社20年誌、40年誌。野毛の河童ー洋食キムラ五十年ー。ほか)

野毛本通りは戦後しばらくの間、露天商が道路脇に建ち並んでいた。ここに来れば何でも揃うと言われるほどにぎわっていた。(写真:広瀬始親)

東京五輪を機に露天商たちが収容された都橋商店街ビル。建設当時は1階には物販店が並び、飲食店は2階に集められていた。川沿いの弓なりの建物形状が独特の雰囲気を生み出している。(出典:写真集「昭和の横浜」横浜市史資料室)

現在は1・2階のほとんどが飲食店になっている。このため昼と夜とでビルの姿は一変する。垂直にそびえるランドマークタワーとのコントラストが印象的。


より大きな地図で 防火帯建築(都橋商店街ビル) を表示

2013年11月22日金曜日

第一大場ビル(現存せず)

長者町三丁目交差点に、かつて3棟の防火帯建築が向かい合って建っていました。

長者町三丁目側に建っていた第一大場ビルもその一つ。昭和30年度融資を受けて神奈川県住宅公社との併存型の共同ビルとして建てられました。施工は関工務店、建築主は大場ハナ氏。大場氏は交差点対角側のビル(第二大場ビル)も所有。いずれも現存していませんが、大場氏はこのあたり一帯の大地主だったようです。

その後、ある質屋が自動車販売店とともに第一大場ビルを買い取り入居します。戦後に磯子根岸橋で開業したのちに、裏通りの質屋から表通りの質屋へ。市電が通る長者町通りとみなと大通りがクロスする交差点に建つこの建物が選ばれました。時代を先読みした父の事業を引き継ぎ、中古ブランド品を取り扱う専門店のパイオニアへと成長させた息子。このように、横浜の戦後復興は横浜商人たちがつくりだし受け継ぎ成長させてきたものでもありました。

みなと大通りを港にむかって歩くと 開港記念会館、県庁、横浜税関、と「ジャック」「キング」「クイーン」の愛称で親しまれている近代建築3塔に出会えます。でも、港を背にまっすぐ関外に向けて歩いてみてください。

接収解除後の横浜復興を象徴する横浜市役所(昭和34年、村野藤吾設計)、線路を超えてまもなく見えてくる横浜文化体育館(昭和37年)はいずれも開港100周年事業としてとりくまれたものでした。万代町の日ノ出川公園は、接収解除後に行われた戦災復興土地区画整理事業によって生み出されたもの。いまは市民の貴重な憩いの場所となっています。そして市電の通る長者町三丁目交差点へ。

この交差点は、開港以来脈々とつづく横浜の歴史と庶民の暮らしがクロスする交差点なのです。

(参考:株式会社アールケイエンタープライズ会社概要、融資建築のアルバム(横浜市建築助成公社)、ほか)

竣工当時の第一大場ビル。手前に市電の線路や架線がみえる。

2000年ごろの第一大場ビル。ファサードは当時のままだが、下層階店舗は界壁をとりのぞいたり内外装をリニューアルするなどかなり手が入れられている。

質カドヤの刻印が残る第一大場ビル。横浜の戦後復興は商人たちの復興・成長の歴史でもあった。



より大きな地図で 防火帯建築(第一大場ビル(現存せず)) を表示

2013年11月11日月曜日

野田ビル・馬車道会館ビル

「会館」という名前のつけられたユニークなビル。馬車道通りに面しているので馬車道会館という名称ですが、南北筋は住吉町通り(5丁目)にも面しています。野田ビルはその後分けてつけられたビル名のようですが建物としてはいまも一体です。

住吉町5丁目、6丁目界隈は、かつてかなり道が入り組んでおり、幅も狭く地割りも複雑な地区でした。関東大震災を契機に、土地区画整理事業が適用されましたが、反対住民も多く事業は難航しました。当時横浜市復興会の会長をつとめていた原富太郎はこの局面を乗り越えるために地域に交和会を設け地域の実情に沿った補償を約束、ようやく事業は軌道に乗り、現在に至る区画割りが誕生することになります。(参考:中区史)

この5丁目界隈には、接収解除から間もない昭和31年に鉄筋4階建ての問屋ビル、33年には第二問屋ビルが建てられます。この2つの問屋ビルはそれぞれ神奈川県住宅公社、日本住宅公団との併存住宅でした。いずれも現存していませんが、建設の目的は戦災と接収で各地に分散してしまった問屋や卸売り業者にもういちど戻ってきてもらう問屋街構想にありました。

ほぼ時期を同じくして、昭和30年度融資を受けて鉄筋3階建ての馬車道会館ビルが建てられます。4名の建築主による共同ビル。このころはまだ、住吉町4丁目に横浜宝塚劇場、旧中区役所が立地し、また、戦後には5丁目に横浜東宝会館も開館したばかり。昭和35年までは横浜興信銀行(現横浜銀行)本店もこの通りにありました。

賑やかな馬車道通り、弁天通り、伊勢佐木町通りなどと比べてみると、落ち着いた文化芸術の通り・産業振興の拠点としての性格が強かった住吉町通り。馬車道会館ビルの建設と、「会館」という名称には、同じ目標を共有する商店、企業に集まって(戻って)欲しいという思いが込められていたのではないでしょうか。

関東大震災前は住吉町5、6丁目付近は道が入り組み地割りも複雑だった。桜木町駅にも近いことから、震災復興の土地区画整理事業の重点エリアの一つだった。現在はこの場所に「六道の辻通り」の石碑が建てられている。(「大正調査番地入横浜市全図」(有隣堂出版部1920年)より引用)

竣工当時の馬車道会館ビル。馬車道通りと住吉町通りが交わる場所に建てられている。ガラスの窓面がいっぱいにとられ、どの場所も明るいフロアとなるように配慮されている。(融資建築のアルバム(横浜市建築助成公社)より)

現在の馬車道会館ビルを野田ビル側から望む。上階へのアプローチ階段はビル南西側と北東側の妻面に1箇所ずつ、ビル中央にも上階への階段口が設けられている。北東側の妻面には使わなくなった通用口も確認できるのでこれで合計4つということだろうか。


より大きな地図で 防火帯建築(野田ビル・馬車道会館ビル) を表示

2013年10月31日木曜日

早川ビル・吉村ビル

伊勢佐木町と対岸の宮川町を結ぶ宮川橋の通行禁止が解除されたのは終戦から11年以上が過ぎた昭和31年10月15日のことでした。

このあたり一帯は商店と住宅地からなる繁華街でしたが、広域に接収されており、橋の通行も禁止されていたためまさに近づくことさえできない区域だったと言えます。

接収解除と同時に、地元で復興計画が協議され、この協議によって福富町東通りから宮川橋に至る延長120mの道路の両側の地区について、モデル商店街建設構想が打ち出されました。建築物の形態を統一し、防火建築帯の指定にも沿う街並みをつくり出すために、横浜市初の建築協定(全国では2番目)が結ばれました。来街者に安心して買い物を楽しんでもらうために建築壁面線の後退も取り決められました。

その後、横浜市建築助成公社から昭和32年度融資を受けて、最初の個別再建型ビルが5人の共同建築主によって建てられます。この5人のうちの1人、早川実氏は地元土地所有者の代表として福富町建築協定委員会の会長を務めていた人物でした。

福富町通りは現在は外国人経営の店舗や夜の繁華街として定着し、かつての伊勢佐木町の裏通りとしての庶民の町の面影を見いだすことは難しくなりましたが、防火帯建築の多くは建て替えられることなく当時の復興建築のようすを今によく伝えています。

5名の建築主による共同ビル。1階部分の壁面後退とアーケードが確認できる。従前の土地所有区分のままだろうか、5つの間口を持つ縦割り所有型の共同ビルとなっている。(横浜市建築助成公社20年史より)

現在の早川ビル・吉村ビル。ビル背面側と屋上には土地所有区分ごとに増築されたり、小屋が建てられている。2、3階にはそれぞれの間口部分1階から独立し てアクセスする計画とされている。向かって左端の間口(早川ビル部分)は上階へのアクセスに加えてビル裏側への抜け道が飲食店街として計画されている。

福富町周辺は戦前は商店や住宅地からなる繁華街として庶民に親しまれていたため、宮川橋の通行禁止が解除されたことは地元民にとってもうれしいことであった(昭和31年)。(写真出典:かながわの記憶、神奈川新聞社)



より大きな地図で 防火帯建築(吉村ビル) を表示