向かいには日本初の洋画専門館として明治44年に創業した旧横浜オデオン座(現ニューオデオンビル)が建ち、このあたりは明治後半には既に日本屈指の西洋文化の発信地となっていた場所です。
旧オデオン座はその後、関東大震災からの再建を果たし、しかし、敗戦後占領軍によって昭和30年までのちょうど10年間「オクタゴンシアター」として接収されつづけます。
オデオン座がようやく接収解除されようとするころ、昭和29年度事業として、横浜市建築助成公社から助成をうけて六者共同による共同ビルが建てられました。このころ伊勢佐木町通りにはすでに数棟の共同ビルが建ち始めていましたが、六者によるものはこれが初めてであり、かつてない規模のプロジェクトとなりました。
横浜は開港後、明治期までは弁天通りと馬車道通りの交差するあたりが最も地価が高かったと言われています。大正期にはこれが伊勢佐木町と吉田町の交差点に移り、昭和に入り市電網が充実してくるころには伊勢佐木町と長者町の交差点あたりに移ります。
戦後復興の時代、かつてない規模のプロジェクトを実現に至らしめたのは、このあたりにまだ横浜の中心地、伊勢佐木町の中心地としての熱気が残っていたからなのかもしれません。ビルの名前はそのことを主張しているようにも見えます。
港、関内から伊勢佐木、吉田町、そして長者町へ。横浜の中心地の内陸への移動は都市の発展を象徴していました。しかし、その後の横浜駅周辺の急速な発展によって、昭和40年頃にはその地位を横浜駅に譲ります。
映画館、市電がまちから姿を消し、長者町通りは車の道、伊勢佐木町通りは歩行者の道へと姿を変えました。60年にわたって建ち続けているこのビルは、確かにかつてここが中心地であったことをいまでも教えてくれます。
(参考:横浜市建築助成公社20年誌、融資建築のアルバム、横浜市電が走った街 今昔、有隣No.434ほか)
昭和29年度事業、六者共同による共同ビル。3層と比較的低く構えた外観と、長者町通り・伊勢佐木町通りのそれぞれに面したガラスのカーテンウォールが水平的な広がりを強調している。隅切り部にもガラス面があるが垂直に設けられたルーバーの装飾がアクセント。(「融資建築のアルバム」より引用) |
現在もほぼ竣工当時の外観を保っているが、看板や窓面パネル、街路樹などで隠れている部分も多い。建物としては一体であるが、分割所有のため個別に修繕が行われているのだろう。 |
伊勢佐木町センタービルの看板から、かつてここが中心地であったことを想像することができる。 |
昭和31年5月8日の写真(「横浜市電が走った街 今昔」より引用)。長者町通りを走る市電の向こうに、接収解除されたばかりの旧オデオン座と竣工したばかりの伊勢佐木町センタービルがみえる。手前には横浜ピカデリー劇場の建物。 |