横浜の防火帯建築と戦後復興

横浜は終戦直前に大空襲を受け、市街地の中心部のほとんどを焼失しました。さらに、終戦後は約10年間にわたる占領軍による長期接収を受けました。ようやく接収解除が進みはじめた横浜中心部は関内牧場と揶揄されるほど荒れ果て、横浜市民にとって屈辱的な光景が広がっていました。大空襲と長期接収の二重苦からどのように復興を果たしたのか。そこで努力したのはいったいどのような人達だったのか。いまも関内外に残る防火帯建築群を記録・紹介することから考えてみたいと思っています。

2020年5月5日火曜日

「横浜防火帯建築を読み解く」出版について

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ブログをご覧くださりありがとうございます。このたび横浜の防火帯建築をこよなく愛する有志メンバーとともに、 「横浜防火帯建築を読み解く」 と題する書籍を花伝社より出版する運びとなりました。建築の楽しみ方は人それぞれ。ぜひ手に取っていただきご批判いただければと思います(クリックすると...
2016年6月7日火曜日

「防火建築帯」と「防火帯建築」

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この2つの用語、一見しただけでは違いが分からないため、いちど整理してみたいと思います。 「防火建築帯」 「防火建築帯」は昭和27年5月31日に静定施行された「耐火建築促進法」に出てくる言葉です。この法律は同年4月17日に発生した鳥取大火を受けて延焼防止帯となる路線型の防...
2014年11月27日木曜日

富士見町共同ビル

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長者町3丁目交差点から内陸側に3ブロック。T字路の角に富士見町共同ビルは建っています。横浜市建築助成公社から融資を受けて昭和33年度事業として建てられた第一タクシー(株)(当時)と神奈川県住宅公社による共同再建(併存住宅)ビル。施工は長者町通りでも共同ビルを建設中だった関工務店が...
2014年10月31日金曜日

伊勢佐木町センタービル

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伊勢佐木町通りと長者町通りが交差するところ、関内からみて長者町通りを渡った伊勢佐木町3丁目側にこのビルは建っています。 向かいには日本初の洋画専門館として明治44年に創業した旧横浜オデオン座(現ニューオデオンビル)が建ち、このあたりは明治後半には既に日本屈指の西洋文化の発信地...
2014年9月25日木曜日

幻の横浜中央ビル

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たまたま古い神奈川新聞を見ていたら、興味深い記事を見つけました。 「馬車道に大ビル-工費一億円で四階建て-接収地解放後の計画」 (昭和25年2月11日、神奈川新聞1面) 「伊勢佐木町飛行場跡解放の朗報に引き続き、横浜市のメーンストリート中区尾上町馬車道の一部が米軍の好意...
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自己紹介

藤岡泰寛
横浜国立大学大学院都市イノベーション研究院准教授。専門は建築計画(住宅地の計画、福祉住環境の計画)。横浜の防火帯建築の魅力を紹介するまとまったサイトがなかったためつくりました。気長におつきあい下さい。
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