2013年12月3日火曜日

都橋商店街ビル

2020年に2回目の東京オリンピック開催が決まりました。

1回目の開催は1964年のこと。「もはや戦後ではない」(1954年)と謳われた経済白書から10年。東京オリンピックは日本経済の回復と国際社会への復帰を強く印象づけるものとなりました。

横浜は東京にほど近く、バレーボールの予選会場として横浜文化体育館が選ばれました。しかし横浜は他都市よりも10年は復興が遅れていました。接収解除の遅れから、横浜の「戦後」はまだ終わっていなかったのです。

都橋商店街ビルは、1964年、野毛本通りの美観向上と道路整備を図ることを目的に、露天商たちを収容するために急遽つくられた商店街ビルでした。周辺に適当な移転地はなく、公有地の大岡川河川敷(護岸敷と河川上空)を占有する形で横浜市が建築(横浜市建築助成公社への委託事業)し、商業者の組合(横浜野毛商業協同組合)に賃貸する異例の方法がとられました。

それまで野毛本通りや野毛銀座通りの路上、桜木町駅の周辺には、接収によって関内を追われた露天商たちが闇市を形成していました。カストリ横丁、クジラ横丁などとも呼ばれ、取締りと不法占拠の繰り返しのなかで、彼らはここから再起をはかっていたのです。

露天商ではないものの、野毛の洋食屋「洋食キムラ」さん(初代:貴邑富士太郎)も関内を追われて野毛で再起をはかったひとり。接収のため関内・常盤町から知人のつてを頼り花咲町へ。初代が亡くなった後、二代目の悟氏が平成6年に野毛本通りに新店舗を出します。

関内を追われ、闇市から再起をはかり合法的な居場所をかちとった露天商たち。
関内を追われ、転々としながら野毛で根をおろし店を継いでいくことを決心した洋食店の父子。

戦災と長期接収からの復興は、関内に帰還をはたした人たちだけの物語ではなかったのです。

(参考:横浜市建築助成公社20年誌、40年誌。野毛の河童ー洋食キムラ五十年ー。ほか)

野毛本通りは戦後しばらくの間、露天商が道路脇に建ち並んでいた。ここに来れば何でも揃うと言われるほどにぎわっていた。(写真:広瀬始親)

東京五輪を機に露天商たちが収容された都橋商店街ビル。建設当時は1階には物販店が並び、飲食店は2階に集められていた。川沿いの弓なりの建物形状が独特の雰囲気を生み出している。(出典:写真集「昭和の横浜」横浜市史資料室)

現在は1・2階のほとんどが飲食店になっている。このため昼と夜とでビルの姿は一変する。垂直にそびえるランドマークタワーとのコントラストが印象的。


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