2013年12月27日金曜日

太田一ビル

横浜公園にほど近い、太田町通り1丁目にたつ太田一ビル。

建築助成公社から昭和34年度融資を受けて、野中英雄・菱川泰祐の両名によって建てられた共同ビル。施工は「神奈川県土木」とあり、防火帯建築のなかでははじめての直営工事だったようです。特別の技術を要したか、模範工事の位置づけだったか。(詳細確認したところ、民間企業の「神奈川県土木建築株式会社」であり、直営工事ではありませんでした(2017.1.12訂正)。)

ここは昭和28年に設立された野中貿易株式会社の本店所在地になりました(現在は太田町4丁目に移転)。野中貿易の前身は1917(大正5)年市内(元町)創業の野中楽器店。貿易都市として発展しつつあった横浜の地で、世界中からすぐれた楽器を輸入する代理店として創業。現在は「輸入プロフェッショナルサクソフォンの市場占有率90%以上、輸入プロフェッショナルトランペットの60%」(会社概要による)のシェアを誇る国内有数の楽器輸入代理店へと成長しています。

太田町通りは、弁天通りから一本内陸側に入った通り。華やかな弁天通りに比べるともともとあまり目立たない通りでしたが、関内では弁天通り、常盤町に次いで高額納税者が多かった地区(大正5年統計)。会社や銀行が並ぶビジネス街でした。

しかし、戦後の接収によって通りの様相は一変します。太田町・相生町・住吉町・常盤町・尾上町の各1~3丁目は占領軍によってまとめてモータープールとして使用され、残存建物のほとんどが除却。通りも姿を消します。

いま、太田町通りを横浜公園側に進むと日本銀行横浜支店にたどり着きます。接収解除後に横浜市が区画整理と並行して民有地を取得し、日銀が市内に分散所有していた土地と等価交換の形で確保した約2000㎡の広大な敷地。復興を加速させるために支店立地は政財界の悲願。モータープールとして一帯を接収され、ゼロベースからの復興だったからこそできた事業ともいえます。

今年、野中貿易株式会社は株式会社として再スタートして60周年を迎えました。

戦災・接収を乗り越え継承されてきた歴史ももちろん大切ですが、戦後のゼロベースからの創造と未来への投資の意味を振り返ることも大切ではないでしょうか。

(参考:野中貿易株式会社会社概要、日本銀行横浜支店ウェブサイト、中区史、図説「横浜の歴史」、横浜市建築助成公社20年史ほか)


昭和22年ごろのようす。左上に横浜公園がみえる。写真に含まれる一帯(太田町・相生町・住吉町・常盤町・尾上町の1~3丁目エリア)は占領軍のモータープールとして接収された。(出典:写真集「昭和の横浜」横浜市史資料室)

米国国立公文書館蔵の「YOKOHAMA CITY MAP」。モータープールとして接収されたエリア(着色した部分)は、単一用途としては関内で最大エリアの接収区域であったことがわかる。

現在の太田一ビル。4階建てと3階建てが一体となった共同ビル。おそらく2名の共同建築主の土地所有区分と対応している。3階建ての方が当初の共同ビル(4階建ては後の増築部分)。壁面から少し深さをとって配されたガラスの水平窓、さらにその室内側に柱が隠されている。創和設計の作品。


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2013年12月16日月曜日

尾上町共同ビル

尾上町通りは桜木町駅から大江橋をわたり、まっすぐ横浜市役所に通じる通り。市電が走っていた時代には横浜公園を回り込みながらそのまま本牧まで市電が通っていました。

現在の市役所は7代目にあたりますが、2代目、4代目、7代目の市役所はいずれも現在とほぼ同じ場所に建てられていました。それ以外の場所に建てられていた時期は、開港後の臨時市役所として(初代)、関東大震災や第二次大戦による焼失にともなう一時的市役所だったり(3代目、5代目)と、いずれも暫定的な立地であり、尾上町通り沿いの現在の位置がほぼ定位置だったことがわかります。

建築基準法の前身である市街地建築物法が1919年に施行されてすぐに、この通り沿いは防火地区に指定されました。さらに関東大震災後には土地区画整理によって道路が拡幅、防火地区は戦災復興時の防火建築帯指定にもひきつがれました。

こうしたなかで、尾上町共同ビルは接収解除後の昭和31年に竣工した県公社との併存ビル。施工は大正13年に桜木町で創業した紅梅組。店舗は1階のみで2階から4階に12戸の公社住宅が計画されています(現在は払い下げられています)。1階で営業をつづける中華料理店は竣工後まもなく入居、創業60年近い老舗飲食店です。

おなじ尾上町3丁目のブロックには戦前まで市内有数のダンスホール「カルトンダンスホール」が立地していました。横浜は西洋からダンスが輸入され庶民の暮らしに最初に根付いた場所。少しずつ戦時色をおびていくなかで昭和15年10月末に廃止されますが、昭和21年に営業許可が再開。横浜中心部の市電停留所の前でダンス教室がないところはなかったといわれるほどに復興していきます。

防火地区としても早くから最重要の位置づけとされた尾上町通り。一方で警察の許可がないと開けなかったダンスホールが、市役所の目と鼻の先で戦前から立地し根付いていた通りでもありました。

官と民の近さ、垣根の低さも横浜のアイデンティティのひとつではないでしょうか。
(参考:建築助成公社20年史、写真集「昭和の横浜」(横浜市史資料室)、有隣第391号、株式会社紅梅組会社概要ほか)


竣工当時の尾上町共同ビル。1階にはまだ空き店舗もみられる。西側2スパンは出店準備中だろうか。片廊下型で階段室はひとつ。商栄ビル、長者ビルのように住宅のバルコニー側が道路に面するのではなく、玄関側が通りに面している。このため少し閉じた印象。

戦前まで尾上町3丁目ブロックに立地していたカルトンダンスホール。今和次郎らによって考現学採集の対象ともなった。このカルトンホールは市内の他のダンスホールに比べてかなり賑わっていたとの記述あり(出典:考現学採集(モデルノロジオ)今和次郎ほか)。

現在の市役所庁舎が建築された直後に屋上から撮られた写真。眼下に市電の通る尾上町通り、通りの向かいに「フレンドダンス教室」の看板(写真右下)がみえる。こうした娯楽の復興も市民にとっての戦後復興の象徴だった。(昭和34年撮影、横浜市史資料室)

現在の尾上町共同ビル。歩道の銀杏並木が大きく成長した。西側2スパンの中華料理店は創業60年近い。接収解除後の横浜関内の戦後復興をずっとみてきた。東側には「関内イセビル」が隣接している。


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2013年12月3日火曜日

都橋商店街ビル

2020年に2回目の東京オリンピック開催が決まりました。

1回目の開催は1964年のこと。「もはや戦後ではない」(1954年)と謳われた経済白書から10年。東京オリンピックは日本経済の回復と国際社会への復帰を強く印象づけるものとなりました。

横浜は東京にほど近く、バレーボールの予選会場として横浜文化体育館が選ばれました。しかし横浜は他都市よりも10年は復興が遅れていました。接収解除の遅れから、横浜の「戦後」はまだ終わっていなかったのです。

都橋商店街ビルは、1964年、野毛本通りの美観向上と道路整備を図ることを目的に、露天商たちを収容するために急遽つくられた商店街ビルでした。周辺に適当な移転地はなく、公有地の大岡川河川敷(護岸敷と河川上空)を占有する形で横浜市が建築(横浜市建築助成公社への委託事業)し、商業者の組合(横浜野毛商業協同組合)に賃貸する異例の方法がとられました。

それまで野毛本通りや野毛銀座通りの路上、桜木町駅の周辺には、接収によって関内を追われた露天商たちが闇市を形成していました。カストリ横丁、クジラ横丁などとも呼ばれ、取締りと不法占拠の繰り返しのなかで、彼らはここから再起をはかっていたのです。

露天商ではないものの、野毛の洋食屋「洋食キムラ」さん(初代:貴邑富士太郎)も関内を追われて野毛で再起をはかったひとり。接収のため関内・常盤町から知人のつてを頼り花咲町へ。初代が亡くなった後、二代目の悟氏が平成6年に野毛本通りに新店舗を出します。

関内を追われ、闇市から再起をはかり合法的な居場所をかちとった露天商たち。
関内を追われ、転々としながら野毛で根をおろし店を継いでいくことを決心した洋食店の父子。

戦災と長期接収からの復興は、関内に帰還をはたした人たちだけの物語ではなかったのです。

(参考:横浜市建築助成公社20年誌、40年誌。野毛の河童ー洋食キムラ五十年ー。ほか)

野毛本通りは戦後しばらくの間、露天商が道路脇に建ち並んでいた。ここに来れば何でも揃うと言われるほどにぎわっていた。(写真:広瀬始親)

東京五輪を機に露天商たちが収容された都橋商店街ビル。建設当時は1階には物販店が並び、飲食店は2階に集められていた。川沿いの弓なりの建物形状が独特の雰囲気を生み出している。(出典:写真集「昭和の横浜」横浜市史資料室)

現在は1・2階のほとんどが飲食店になっている。このため昼と夜とでビルの姿は一変する。垂直にそびえるランドマークタワーとのコントラストが印象的。


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