2013年10月15日火曜日

長者町二丁目第一・第二共同ビル(現存せず)

数年前に高層マンションに建て替わるまでは、長者町2丁目で約100mにわたる防火建築帯として長い間存在していた2棟のビルです。

昭和34年、35年の融資を受けた事業として、いずれも施工は関工務店によるもの。関工務店はヘルムハウス、山手カトリック教会などのほかに長者町通りを中心に多くの防火帯建築も手がけた明治18年創業の老舗工務店ですが、2009年に残念ながら倒産しています。

長者町二丁目付近は、これまで大きく4つの表情を見せてきた地域です。

最初は明治15年に遊郭移転地として永楽町、真金町が指定されたことに始まります。移転までの仮営業地として長者町1、2丁目付近に店が建ち並び、水天宮周辺で爆発的な賑わいを見せ始めた盛り場としての表情。(水天宮は戦災被害と境内接収のため、現在は南区南太田に移っている)

次に大正8年に発生した埋地火事(3248戸焼失、罹災・負傷者2万3千人)の復興過程で、道路が拡幅整備され延焼防止がはかられた市内有数の防火地区としての表情。そして、関東大震災後の復興過程で電車軌道が敷設され市電網が整備された交通の要所としての表情。

埋地地区とその周辺地域は、次第に輸出関連業者や洋服布地の問屋などの職人町として根付いていきます。関内や伊勢佐木町界隈が産業や娯楽の最先端の町になっていったとすれば、埋地地区とその周辺地域は貿易商業都市の発展を陰で支えてきた労働者、技術者の町になっていったわけです。

そして最後は戦災復興でつくられた防火建築帯としての表情。

長者町二丁目の防火帯建築に入居していた、あるピアノ店は、販売業から音楽教室へと事業改革を進めながら、一方でピアノ技術者の父から受け継いだ技能を活かした中古ピアノ販売を続けています。

次にこの町はどのような表情を見せてくれるのでしょうか。
(参考:中区史)

建設中のようす(写真:関工務店社史「彰往考来」より)。写真右端に市電と路面に線路がみえる。写真左側の隅切り部の側壁には将来の防火帯建築延長を見越して窓などの開口部は設けられていなかった。

2000年のころの写真。1階店舗の奥(ビル背面側)には3畳間の和室があったらしい。ビル2棟はいずれも高層マンションに建て替わっている。


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