2013年10月1日火曜日

第二イセビルと第三イセビル

防火帯建築にはそれぞれ建築主がいます。建築主は事業者や住宅公社などの企業・団体である場合もあるし個人である場合もあります。

そして、個人のなかには親族(兄弟や子)によって複数の再建ビルを建てた人たちもいます。第二イセビルと第三イセビルもそのひとつ。ほかにも未確認ですが、横浜市建築助成公社から融資を受けた人たちで同姓の場合には同様のケースがあるのかもしれません。

(第一)イセビルは以前ご紹介した、関東大震災後の復興の尖端をきって当時の市会議員上保慶三郎によって建てられたビルでした。

第二イセビルは昭和29年度融資(建築主:上保嘉保)、第三イセビルは昭和31年度融資(建築主:上保元子)を受けて、それぞれ単独再建型のビルとして建てられました。施工はいずれも大林組。

上保慶三郎は、1885(明治18)年、中区扇町生まれ。長崎の露語学校を卒業後、ロシアにわたり洋服やラシャ類を研究し帰国。二十歳の若さで洋品店を開業した人物でした。戦前、戦中にかけて25年間市会議員を務め、敗戦間もない昭和21年1月17日には伊勢佐木町振興会を組織し自ら会長職に就きました。(参考:ハマの建築探検)

戦後、振興会は慶三郎を中心として接収解除陳情を繰り返しながら、返還が叶った土地についてはかつての地権者に店を出すように働きかけていきます。(参考:中区史)

第二イセビル、第三イセビル、もこうした経緯のなかで生まれた防火帯建築。復興の精神は、親から子へ、子から孫へと受け継がれていたのではないでしょうか。

第二イセビル竣工当時のようす。隣り合うビルと共に防火帯を構成しているのがよくわかる。

第二イセビルの現在のようす。竣工当時のままに見えるが、建物裏側はかなり増築されている。2階の窓枠は付け替えられているところが多い。

竣工当時の第三イセビル。何より屋上に設けられた時計台が目を引く。当時はまだ長者町通りに路面電車が通っており、通勤や買物で利用する人たちにとってこの時計台は大切なランドマークだったのではないだろうか。

第三イセビルの現在。時計台が姿を消してしまっているのが残念。


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