神奈川県住宅公社の自社ビルとして、原地所から土地を取得し昭和33年に建てられたものでした。昭和48年には横浜公園近くの新社屋に移転したため、自社ビルとしての使用期間は15年ほどでしたが、その後も(社)土地建物保全協会や(社)かながわ住まい・まちづくり協会、民間の設計事務所などが入居し、横浜の住まい・まちづくりを支え続けてきた建物のひとつでした。
県公社は住宅金融公庫の設立にあわせて昭和25年9月15日に発足。その後、花園橋傍の駐留軍用キャバレーとして使用されていた建物を間借りしたり、横浜駅西口に木造の事務所と管理人用バラック住居を建てたり転々としていましたが、西口の市街地整備により弁天通りに移転することになりました。(参考:「公社住宅の軌跡」神奈川県住宅供給公社)
設計事務所3社による非公式の設計コンペが行われ、最上階の住戸は当時としては珍しいメゾネット形式が採用されました。原ビルから延長する形でコの字型の配置で街区を構成し、弁天通り・太田町のそれぞれの通り側から街区内部への引き込みがデザインされるなど、県公社による防火建築帯造成の考え方とその意欲がよくわかります。
横浜で戦前から3代にわたり営業していた理髪店が入っていた時期もありました。隣接する原ビルは、なかなか店舗が埋まらず苦しい経営が続いていましたが公社ビルが建ってようやく急速に店舗が埋まったようです(「住宅屋三十年」畔柳安雄)。公社職員にとっても思い入れのある建物として、現在は静かに建て替えを待っている状態ですが、横浜復興の一翼を担った建物として後世に語り継がれることを願います。
竣工当時の公社ビル(「横浜市建築助成公社20年誌」より引用)。2階事務所部分のガラスの水平連続窓と、1階隅切り部の特徴的な意匠、太田町から街区内部への引き込み動線などが印象的。関内大通りの路面電車の線路もみえる。 |
現在の公社ビル。周辺は大きく変わった。半世紀を経て、関内大通り沿いの5本の銀杏並木も大きく生長した。 |
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